おはよ..。
昨日は9時に泣き寝入りしたから、4時に起きてしまった。一から出直すつもりで頑張ります。
そもそも愛するって何だろう? 遺伝子学的に考えれば、「愛」=「生殖行為」、すなわちセックスということになる。
人間以外のほとんどすべての生物(ゴリラのような極めて人間に近い霊長類は例外かもしれないが)は、セックスが生きているうえでの唯一で究極の目的であり、彼らは何の疑いもなく、次の生命を創り出すために生き、そしてそのために死んでゆく。
それを汚らわしい行為だと感じるだろうか?
そんなことはあるはずがない、そう、私たちが最高の愛というように感じるような感覚を彼らはセックスで感じているはずだ。
では、私たち人間ではどうだろうか? 私は男性なので、見方が男性の立場に偏ることをご容赦願いたい。
たとえば、ナンパな男がいて、彼は次々に可愛い女性をモノにしてゆく。自分の大好きな女の子も、ナンパな男と知りながら、簡単に奪われてしまった、とする。
もてない男の立場からすれば、「なんてくだらない男だろう」と感じるが、そもそも生物学的に見れば、容姿や話力など様々な点で、より優れた繁殖力を持っていて、遺伝子的に優れているということだ。
そして、すぐに女性をゲットして自分の遺伝子をばら撒いている男は、生物学的な意味での「愛」を敢然と実行しているだけで、何ら誤った行動を取っているわけではなく、「社会」という存在がこの問題を複雑にしているにすぎない。
逆に、女性をろくにゲットできず、生物として劣っている僕が未だに生きていられるのは「社会」が守ってくれているからだし、生きてこれたことに感謝しなければならない。
たとえばセイウチなどは、コロニーで交尾できるのは最も強いオスだけだ。
では、なぜ人間だけが「愛」と「セックス」を別の物と考えるのだろうか?
今度は女性の立場から考えてみよう。
人間の場合、女性は子供を育てなければならない。
原始的な生命ほど、子供は最初から完成している。周りに敵はいっぱいいるが、卵から出た瞬間から動くことが出来、食べ物を得ることができる。だから、子育ての必要はない。しかし、鳥類や哺乳類は子供を育てなければならない。だから、単純に容姿だけで判断してパートナーを選ぶわけにはいかない。
といっても、人間以外の生物は、容姿=生命力であって、たとえば、サル山のボス猿はサル山で最も強く、そのことが女性や子供を守ってゆく能力に直結していたから、メス猿はボス猿と交尾することに何の疑いもないはずだ。
しかし人間の場合、「社会」というものが存在し、その中で女性自身が生き、そして子供を育てるためには社会的な能力も評価しなければならない。お金を稼ぐ力、うまく渡り歩く力、女性を守る力。
そんなものが評価基準として入ってくることで、人間の「愛」が複雑になってしまったのかもしれない。
たとえば、私たち人間も、より若い頃ほど、比較的容姿や運動能力などに惹かれ、恋をする傾向があると思う。それは社会的な経験が浅く、愛において原始的な判断をしているといえる。しかし年齢を重ねるにしたがって、そのような基準で簡単に恋に落ちることは少なくなり、社会的な能力に評価の基準を移していくようになる。
さて、ではここでもう一度自分自身に戻って考えてみる。
私は元々、容姿や運動能力において、同年代の男性にくらべてかなり劣っていた。だから、愛を獲得するためには、それ以外の部分で自分自身を磨き、女性を惹き付ける能力を身につける必要があった。それはたとえば、知力であったり、社会的な信用などであった。そうして、この社会で生きていく能力に優れていることをアピールしてきたのだろう。
では、最後にまとめてみよう。人間において「愛する」ってなんだろう?
社会的な判断基準が少ない若い頃ほど、「愛」=「セックス」となる傾向が強く、それは生物学的に全く正しい行動といえる。しかし、経験を重ねるにしたがって、社会で生きてゆく能力を重視するようになり、それで異性を選ぶことが単純でなくなり、じっくりと時間をかけてセックスするパートナーを選別するようになる。
そのようにして、パートナー選びに要する期待と不安に満ちたほんわかとした時間の流れこそが「恋」であり、そうして結実したものが「愛」ではないだろうか?
だから決して、「愛」と「セックス」は別物ではなく、入り組んだ社会の中で結実させるにはたくさんの労力と時間を要する分、それを結実させるまでの過程を「恋」として楽しみ、さらに、いったん決まったパートナーを結実した後の「愛」として時間をかけて楽しむ。
最終的には、遺伝子を残すという生物としての唯一の目的を果たすためであるが、それに至るまでのすべての過程(恋)、そしてそれを達成した後の子育てを含む時間(愛)を人間は大いに楽しむために生きているのではないだろうか?
結論とすれば、社会というものが、愛や恋、セックスをわかりにくいものにしてしまったが、人間はその社会という複雑な環境の中で、それぞれの楽しみを見出してきたのではないだろうか?