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2006年3月30日 (木)

人類の未来について4

 人類の未来について3 の続きです。本業の方がだんだん忙しくなってきましたので、難しいことを考える余裕が無くなってきました。

 私がこのブログを書き始めたのは2006年になってからで、それまでブログの世界がどのように発展しているのか知りませんでした。このブログに書いたことは、私が今までの人生の経験から感じたこと、考えたことを現時点で集大成したもので、一般的な理論がどのようになっているのか全く勉強しておりません。しかし、ブログを書き進めてゆくにしたがい、自分の理論を組み立てるためにいろいろな方のブログを拝見させていただいたところ、私と極めて近い考え方の人が意外に多くいらっしゃることを知りました。たとえば、ネットワーク「地球村」http://www.chikyumura.org/などです。

 この世界というか、宇宙には、人間という個体を超越した大きな意思(という表現が正しいかどうかわかりません)が3つ存在すると思います。その3つとは、

①遺伝子の意思

②地球の意思

③太陽の意思

 遺伝子の意思とは、40億年前の生命の誕生から受け継がれたきた遺伝子、様々な形に進化し、分化と結合を繰り返してはさらに進化を続け、現時点での最終形である人間を作り出しました。僕が大学生の頃、今から20数年前ですが、その頃は「エントロピーの法則」というのが流行しておりました。すなわち、エントロピーは必ず増大する方向に進む、というものでした。したがって、進化というのはエントロピーの法則に反しているので、ありえない、何か別の、進化へと向かわせる意思が存在しなければならない、というものでした。その頃の議論としては、一部の宗教家が熱力学の法則をうまく利用して、神の存在を押し付けているように感じていました。ところが最近では、けっこう権威のある方がよく似たことをおっしゃられているようです。その代表が筑波大学の遺伝子研究の第1人者である村上和雄氏のようです。内容については私はこれから学びますが、昔の議論とさほど変わらないように思えます。最後に何か偉大な力の存在を結論づけておられるようですが、学者というものは自分の研究の限界が見えてくると神様に頼りたくなるのかなと感じます。私には科学的な裏づけはありませんが、では「神様を作ったのは誰?」って疑問が沸かないのかな??って思いますが。

 遺伝子には環境に適合して自分の複製を残していこうという、絶対の意思があります。そしてその意思に外部からエネルギーを与えるのは、地球と太陽であり、それらから進化への推進力がもたらされる限り、エントロピーの法則にも何ら反していないと思います。

 次に2つめの地球の意思。これは人類の未来について3 に書いた通りで、意思といっても、人間のように人格的な意思が存在するかどうかではなく、豊かな地球環境を作り出そうという推進力みたいなものがあるのではないかと考えます。その完成形として人間が出来上がったわけですが、しかし人間は地球の意思に反して、自然環境を破壊、エネルギーを使い果たし、地球を死の星へと変えようとしています。そのため、地球の意思は人間を排除する方向へ働いているのだと思います。様々な異常気象は人間を排除するための地球の免疫機能が働いた結果、人間でも風邪やインフルエンザのウイルスを撃退するために体温を上げるのと同じことです。この地球の意思というものを、昔の宗教家は仏様と捉えたのではないでしょうか。

 最後の3つめですが、太陽の意思、これも決して人格的な意思があるとは考えません。物理的に捉えますと、太陽というのは一方的に、地球上にエネルギーを与え続けています。これこそがすべてのエネルギーの根源であり、この一方的なエネルギーがあるからこそ、確率的にありえない進化を可能にします。私としては、進化に確率を持ち出すこと自体、理解し難いことだと思います。だって確率というのは、すべての結果が同様に確からしいと考えて、それぞれに実現する可能性を確率として与えるものであって、このように進化したいという明確な意思を持つものに、進化する確率は何億分の一であるということ自体、意味があるとは思えません。またエントロピーの法則に反するというけれど、地球上には太陽から降り注ぐエネルギーがあって、そのエネルギーと収支が取れていれば、何ら法則に反しているとは思いません。この太陽からのエネルギーを、昔の宗教家は「神の愛」と考えたのではないでしょうか?

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2006年3月26日 (日)

人類の未来について3

 私たち人間は生命体です。と唐突に始まりましたが、最近、私のブログの数少ない読者の方から、「難しくてよくわからない、コメントのしようがない」と苦情をいただきました。確かにごもっともな意見で、みなさんに地球の危機、人類の危機を伝えることが私の真意であるのに、現実的に言葉が難解で伝わっていないとすれば、それは全く私の力不足であるといわざるを得ません。そこで今回からは、できるだけわかりやすい文章になるように心がけたいと考えますので、これからもみなさんのご意見を率直にお知らせいただければと考えています。

 そこでふたたび本題ですが、それでは私たち人間を生命体と定義づける根拠はいったい何でしょうか? というか、「生命体」という言葉自体がまず人間を含むものとして作り出され、その上でではどこまでを生命体に含めるかと議論すべきと思います。で、今私が書きたいのは、ウイルスが生命かどうか、という議論ではなく、「人間が生命体である」ならば、「地球も生命体」ではないかということです。「何を馬鹿げたことを」とおっしゃられる方がいるかもしれませんが、では地球が生命体でない根拠はどこにあるのでしょうか? 地球は地球のコピーを作らないからでしょうか? しかし、高等な生命体ほど個体としての寿命は長くなっており、人間の寿命も延び続けています。地球が地球のコピーを作らないという証拠は何もありません、ただ人間の歴史よりもはるかに長く生き続けているだけかもしれません。また、人間の場合、生命体といっても決してただ一つの生命で成り立っているわけではありません。体内には多くの微生物が宿っており、それらが現実に共存する形で生命を維持しています。そういう観点から考えますと、地球も全く同様で、地球上の多くの生命が共存する形で地球の生命を維持しています。したがって、地球が生命体でないという根拠はないし、さらに地球が生命体であるならば、当然地球の意思が存在するのではないかと思うのです。また、地球が生命体であるならば、死亡することもありえると思うのです。ここで地球が生命体かどうかという議論について書き続けても私の結論にはいつまでたっても届きませんので、とりあえず「地球の秘密」という記事をご覧下さい。

 私の以前の記事で人類の未来について1に、人間は地球のがん細胞ではないか、と書きました。地球が生命体ならば、最近の異常気象はがん細胞たる人間に対する、地球の免疫機能の発動ではないでしょうか? だけども元々人間も地球が作り出したもの、すなわち地球の細胞のようなものです。これがガン化してしまったわけですから、これを駆除するためには単なる自然治癒力だけではどうにもならない、だから異常気象という免疫機能を発動させて人間を攻撃しているわけです。しかし、それには地球自身にも危険が伴います。正常な細胞をも攻撃しなければならない、だから異常気象によって人間だけでなく、貴重な自然をも破壊してゆきます。その結果、行き着くところは地球自身の死亡となってしまうのではないかと懸念するのです。さらに極論すれば、人間は簡単に戦争をして人間同士で殺しあうわけですが、また核兵器や化学兵器、生物兵器などを作り出して、人間を絶滅させうる武器を数多く作り出しているわけですが、こんなことをしてしまう意思はいったいどこにあるのでしょうか? 地球自身の、人間に滅びてほしい、という意思が働いているのかもしれません。そういう地球の見えない大きな意思が、自己中心的な人間の思考に結びついて、戦争を起こさせているのかもしれません。何か絶望的な観点ですね。

 それでは次に、私や他大勢の平和主義者、環境保護主義者が世界平和を訴えるのはなぜでしょうか? もちろん自分が生き残りたいという理由もあります。自分の子供たちの時代を作ってあげたいという思いもあります。平和ということ自体を愛している、という気持ちもあります。しかしさらにその先に、もっと大きな意思があるかもしれないと最近思うのです。最初の生命が地球上に誕生した時から現在に至るまで、個々の生命体は想像つかないくらい入れ替わり、人間にまで進化してきましたが、しかし遺伝子はず------っと受け継がれてきたのです。自身を複製して存続したいという意思を持って。その受け継がれてきた遺伝子の意思、遺伝子の叫び声、それが「この遺伝子の長い歴史を、わずか500万年の人間で終わらせてくれるな!!」 と聞こえるような気がするのです。だから私は、人間が地球のがん細胞であると感じていても、人間を愛し、地球とともに存続できる道をみんなで考えたいと思うのです。

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2006年3月24日 (金)

人の生きる意味1

 今日は観点を変えて、人の生きる意味について考えてみたいと思う。かなり哲学的な内容なので、ちょっと意味の通らないところがあったりするかもしれないが、あくまで僕個人のこれまでの人生経験がベースになっていることをご理解いただきたいと思う。

 僕は20歳を過ぎた頃、その頃に僕自身の人生の大転機となる非常に大きな出来事があったわけだが、そしてそのことを通して人生観がまるっきり180度変わってしまったわけだが(その詳細については、公の場で書ける内容ではないので、控えさせていただきたい)、それ以降、僕自身も僕の周りで起こるすべての出来事も、何もかも変わってしまった。何が変わったかをいくつか列挙する。まず、僕がやりたいと願うことは何もかも実現するようになった。普通は偶然でありえない、と思えるようなことが何度も何度もくりかえし起こり、通常では信じられないくらい幸運な人間と思われるようになった。苦労する、という感覚が僕の中から消失して、何もかも楽しいと感じるようになった、などだ。とりあえず、今思いついたことをいくつかを挙げたが、そういうちょっと不思議な出来事が最近になって、さらに強くなった。そういうものに対する私自身の答えとしては、自分自身の意思の強さや、自分個人の利益よりもまずは公の利益を優先すべきという考え方や、身の回りに起こるすべての出来事は自分自身に原因があって、そしてその課題を解決することで自分はさらに成長できる、という考え方や、いろいろ自分で理由づけをして、基本的にはそれらは大筋では間違っていなかったが、最近になって、それらをすべて説明づけるものに出会うことができた。それが野口嘉則氏のブログ「幸せ成功力を日増しに高めるEQコーチング」だ。なぜこのブログがすごいかというと、今まで何か不思議なことがあると、または科学で解決できない課題に突き当たると、または人生の深い窪地にはまり込んでいる人に対して、それらを説明するために過去の聖者たちは、必ず神と仏とか仮定の中の存在を作り出して、最後はすべての責任をそれらに押し付けることで、そして自身は「その使者」という存在ということにして、うまく丸め込んできた。もちろん、欲望に渦巻いた人間の長い歴史の中で、宗教の存在が大きな意味を持ち、今日の平安な社会を築いてきたのも事実である。しかし、科学の発展ももはや重箱の隅をつつくくらいのものしか残っていない現在の世界においては、矛盾に満ちた世界を生きる現代人の心を癒すために大いに役立ってはいるが、しかし、今日の現状を正確に説明できる宗教などもはや存在せず、信者たちも多くの矛盾を感じながらも心の平安を求めて彷徨っているのが現状である。そんな中で、上記のブログはそういう嘘に頼ること無しにすべての哲学的な問題に答えを与え、僕のこれまで考えてきたこともすべて的確に説明してしまった。

 それで、今日の本題の「人の生きる意味」であるが、僕たちは生きていく上で、その目的というものをそれぞれ持っている。たとえば、大リーガー等の職業を目的にする人や、誰かのために尽くしたいという献身的な目的の人など、みな人それぞれである。また人によっては、社会的にあまり好ましくないことを目的にしている人だっているだろう。それらは、それぞれ個人にとって、最も重要なものであるのは当然だ。だけどもそれに加えて、私たち人間は、個人個人の目的のそのさらに先に、人間として、人類として、さらには地球に生きる生命の支配者として、その「生きる意味」が存在するのではないかと思うのだ。本題に入る前に、前置きに随分と時間を費やしてしまったので、読者のみなさんもお疲れと思うので(私自身も思考力の低下が見られるので)、その2で続きを書かせてもらいたいと思う。最後まで読んでくださって、どうもありがとう。

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2006年3月21日 (火)

一寸の虫にも五分の魂?

 「一寸の虫にも五分の魂」という諺がある。「どんなに小さく弱い者でも、それ相応な思慮や意地を持っているものだということ。小さくても、侮(あなど)れないということ。」というふうに、最初に検索したサイトに書いていた。だけど僕は子供の頃、「小さな虫にも命があって、みなそれぞれ一生懸命生きているのだから、意味も無く殺してはいけない。」という意味として、親や教師に教わった憶えがある。「僕らはみんな生きている。」の歌の世界だ。

 その後、時がたって年輪を刻んでみると、僕たち生物というものは、互いに助け合って生きている部分もあるものの、しかし他の生物の命を奪わなければ生きていくことができないことを知った。それを食物連鎖という言葉で教わったものだ。しかし今思い返してみると、食物連鎖のピラミッドの頂点に人間がいたはずで、そのピラミッドの形が示す通り、ピラミッドの上に位置する生物ほど、その数は小さくなければならない。賢明な読者の方は、もうこの時点で今日僕が何を書きたいかおわかりだろう。

 そう、僕たち人間は、健全な社会の中で、安心して生きてゆけるために様々な社会のルールを作ってきた。その中で、上記のような「僕らはみんな生きている」思想も出来上がったわけだが、だけども実際は、他の生物に比較して、人間の生命だけがあまりにも重きを置かれるようになった。もちろん今の安全な社会実現のためには仕方のない流れだったと思う。また、医療の発展は、自身の生命を維持したいという欲求と、人間の生きる目的ともなっている知的好奇心の実現と、その重要な2つのファクターを達成してゆく上での当然の結果であるし、それらを否定するつもりは全くない。だけども、それらを肯定したとしても、今ここに解決しなければならない決定的な病魔が進行しているのも事実である。人口増加による食糧の不足、水の不足、エネルギーの不足、資源の不足、森林の破壊、砂漠化、それに伴う地球温暖化の進行(今回は人口問題にスポットを当てているので、このような流れの議論をしているが、特にアメリカおよび日本等の先進国による無駄な温室効果ガスの排出を忘れているわけではない)。

 人間偏重主義の中で、数を増やし続けてきた人類。だけど、今曲がり角に来ている。キリスト教は、人間だけが神に祝福された尊い存在だと訴える。避妊や中絶は神に対する罪だと訴える。だけど、実際そうだろうか? 人間の命だけがなぜそんなに尊い、価値のあるものなのか? 人間偏重主義ではない、地球全体の生命圏の維持を最重要事項と考える新しい価値観、新しい宗教観が今の人間には必要ではないかと思う。そこにはもはや今までの、人間の味方だけをする神様は存在しない。

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2006年3月19日 (日)

ハウス倒壊その後

DSCN2699  みなさん、こんにちは、突然ですが、テンプレートを変えてブログのイメージを一新しました。これから暖かい春になりますので、明るい気分でまいりましょう!! で、今日はハウス倒壊のその後でーす。前回の報告で、13棟のハウスが倒壊、そのうち全壊3棟、半壊1棟、あと9棟はこれから掘り出すということでしたが、先週ようやくハウスの掘り出しが終了いたしましDSCN2691 た。その結果、全壊は最初の3棟だけ、残り10棟は半壊で鉄骨のダメージは小さく、立て直せば使えそうです(~0~) 上の写真が全壊の3棟の1つです。鉄骨は肩のところで完全に折れてしまっているため、再生は不能です。で、真ん中の写真を見てください。右が倒れなかった正常のハウス、左が倒DSCN2694壊してしまって掘り出したハウスです。この2棟は同じ高さの地面に建って います。左のハウスが異常に低いのは、ハウス全体が将棋倒しに倒されてしまったからです。下の写真は真ん中の写真を反対側から撮影したものです。

 私なりに原因と状況を推測してみました。まず、今年の大雪は最大で3メートルもの積雪(積雪とは実際に積もっている雪の量で、降雪量とは毎日降る雪の量を足し合わせた合計の雪の量のことです)となったため、ハウスの鉄骨は頭のてっぺんまで完全に雪の中に埋没してしまいました。その雪が解けて、または上から降り続く雪の重みで雪はしまってきますから、その際に雪は塊のまま下がるため、鉄骨は下に引っ張られることになります。そして、今年の冬の特徴ですが、非常に低温の日が続いたため、降った雪があまり下がらない(しまらない)まま積雪量が増え続けたため、ハウスの鉄骨がかまくらの骨組みのような役割を果たし、ハウスの鉄骨の下は空洞が出来はじめていたと考えられます。ところが、ハウスの上には更なる降雪が続き、それに加えて北西からの風の影響もあって、東西方向に建てているハウスは東側に、南北方向に建てているハウスは南側に、将棋倒しに倒壊してしまったようです。したがって、3棟を除いた残りの10棟は非常にきれいに倒れていたため、妻面や直管にダメージがあるものの、全般的に折れているものは少なくて済みました。みなさん、いろいろ心配をおかけしましたが、なんとか立ち直れそうだし、精神的にはかなり立ち直りました。これから10棟以上もハウスを建てるのは、非常に先が思いやられますが、ぼちぼちそれなりに頑張ってみます。以上でーす。

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2006年3月13日 (月)

罪を憎んで人を憎まず???

 今日は、刑法とか裁判とかに対する疑問について。古くは宮崎つとむ、近年では松本ちづおとか(漢字わからなくてすいません)、非常に重大な犯罪を犯している人間に限って、精神鑑定云々ということになり、そして場合によっては鑑定の結果、精神異常者と判定され、罪に問われないというケースが最近特に多くなっているような気がする。だけども、それならば正常な人間と精神異常者との境界はいったいどこにあるのだろうと疑問に感じているのは私だけだろうか?

 私たちの暮らす現代社会では、あまりにも多くの人間が存在しており、その多くの人間がある程度安心して生活をしてゆかなければならない、そのために社会の秩序を保つ必要がある、だから数多くの法律やら条令やらが存在している。そして、犯罪者を裁くための法律が刑法であると思う。だけども、刑法云々という前に、私たちは道徳やら宗教やらで、人を傷つけたり、殺したり、女性を辱めたりすることは罪深いことであるとすでに理解しているはずであり、それは社会的通念であると思う。では、ここでまず殺人に絞って考えてみるが、殺人を現実に実行してしまう人の精神は正常であろうか? 殺人にもさまざまな形態があろう。たとえば、ついかっとなって人を殺してしまったとしよう。その場合、普段はとても立派な人間であったとして、その人殺しに及んだ瞬間のその人の精神状態は正常であろうか? 決してそうは言えないと思う。だって、その人自身が普段は犯罪だと考えていることを実行してしまっているのだから。では、今度は殺人が犯罪と認識している人間がそうとわかっていて、だけども血を見ると興奮するとかいう理由で人殺しをした場合は? これは容易に精神異常と決め付けられるかもしれない。では、殺し屋やヤクザが人に頼まれて人殺しをした場合は? それについても、彼らは殺人は犯罪と認識しているし、道徳に反していると認識している。しかし道徳に反した行為を実行してしまうということは、私にくらべれば精神異常と言わざるを得ない。

 そのように考えると、突発的であれ、計画的であれ、殺人をする人間は、完全に正常な人間に比べれば、何らかの精神異常を持っていると私は思う。で、私がおかしいと思うのは、死刑になるような重大な犯罪に限って、精神鑑定。精神鑑定と騒ぎたて、挙句の果てに無罪を勝ち取ってしまうことである。人道主義の仮面を被った弁護士は騒ぎ立てるし、犯罪者はまるで計画的ではないかと思えるほど、精神異常者のふりをしたりする。だけど、僕が思うに、正常者と精神異常者のどこに壁を作るのか?、言ってしまえば、どんな人間も個性を持っており、誰もがお釈迦様やイエスキリストなどではなく、何らかの異常な(個性的な)部分は持っているものである。すなわち、ここまでが正常者、ここからが異常者と壁を設けること自体がおかしいし、ここから先は異常者だから罪に問えないという考え方はおかしいと思う。

 すなわち、ここでタイトルに帰るが、「罪を憎んで人を憎まず」という考え方で刑法を改めるべきと思う。正常だから異常だから、ではない。また、大人だから、少年だからでもない。殺人という行為自体を等しく裁くべきである。でないと、今後もにせ精神異常者による殺人が後を絶たないと思う。婦女暴行などの性犯罪に関しても同様なことが言えるが、軽すぎる刑罰についても書きたいので、稿を改めたいと思う。

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2006年3月10日 (金)

無責任な大人たち

 大人という生き物はなんて無責任で自分勝手なんだろうと、自分が大人になってみて気がついた。

 たとえば、飲酒。先日、駒大苫小牧の野球部員が飲酒しているのを通報されて、甲子園出場辞退になった。過去に他の高校でも同じような事例が何度もあって、複数回同様な案件のニュースを繰り返し聞いていると、そのことの本質に特に疑問を感じること無しに、出場辞退になるという事実を当たり前のように受け入れてしまう。だけど、それって本当に正しいのだろうか? 大人はいくら酒を呑んでも罰せられることはないのに、未成年はほんのわずかも口にすることは許されない。それって本当に正しいの? もちろん、医学的な観点とか、教育的な観点とか、いろいろと理由付けはできるだろう。だけど、それならどうして大人は無制限に許されるのだろうか? 大人だって、酔っ払った勢いで暴力事件を起こしたり、女性を襲ったり、飲酒運転で人を轢き殺したり、未成年よりもはるかに重大な事件を起こしている。それらはもちろん刑法だとか道路交通法だとかで罰せられるが、だけど飲酒によってそのような状態になること自体が危険なはずなのに、どうして大人の飲酒に制限を加えようとはしないのか? 大人の作る社会ルールは大人にはとにかく甘く、子供には厳しい。だけど、子供の失敗は子供のせいとして処理し、大人たち自身に問題があるということを決して認めようとはしない。僕はおかしいと思う。だから子供たちは要領よく生きることが正しいことだと考え、影で悪いことをすることが正しい生き方だと考えるようになる。

 たとえば、たばこ。最近は特に、健康上問題があることがはっきりとわかった。特に、喫煙者本人よりも周囲の人たちに副流煙という形でさらに大きな健康被害を与えることが明らかになった。世の中では当然のように分煙化がすすみ、喫煙者の肩身は確かに狭くなってはきている。その流れに関しては、好ましいことだとは思うが、だけど、そこまで確かに問題があることが判明していながら、したがって、女性だからどうとか、未成年だからどうとかいう問題ではないことが判明していながら、どうしてさらに一歩進んだ政策が取れないのだろうか? 未成年に喫煙を禁じていた理由はなんだったのか? 青少年の健全な発育に支障を来たすから? 女性の喫煙が好ましくないと言っていた理由はなんだったのか? 特に妊婦さんに関しては赤ちゃんに悪影響を与えるから? だったとしたら、副流煙という煙が彼らにさらに大きな悪影響を与えるものであるということが事実として判明しているのであれば、女性や未成年の喫煙よりも、その隣にいるお父さんの喫煙が最も最初に禁ずべきものではないのか? だけど、大人は辞められない、だから、子供たちはそんな大人たちを見ているから、良くならないのは当たり前だと思う。

 たとえば、テレビゲーム。これに関しても、「ゲーム脳の恐怖」という本で書いていたが、青少年がテレビゲームばかりをやっていると、脳の発育に重大な影響があるそうだ。我が家でも、それを読んでから、テレビゲームは押入れの隅にしまい込んだ。だけど、世の中では未だにテレビゲームが販売されている。それも、たとえば日本を代表する大企業であるsonyが、未だに何食わぬ顔してプレステを販売している。企業は金さえ儲かればいいのか? 企業理念はないのか? sonyほどの大企業ともなると、金儲けよりも社会的責任という部分の方が重要ではないのか? 僕から言わせれば、金さえ儲かれば何をやってもいいというライブドアとどこが違うの?、って思う。それと、では「子供のテレビゲームは脳の発育に悪影響があるから止めなさい」と言うが、それじゃあ、大人たちが大金をつぎ込んでいるパチンコはどうなの?って思うのは僕だけだろうか? パチンコの括りとしてはギャンブルというものであり、テレビゲームと比較するのは無理があるかもしれないが、ここで言いたいのは、それぞれの脳に与える影響という部分で考えると、パチンコの方がずっと悪影響が大きいのではないだろうか? 

 他にも山ほど同様な事例があるだろう。今の子供たちはいろいろな観点から問題があると言われ、良くするためにはどうするべきだ、ああするべきだ、と議論されているが、僕が思うのは、大人が手本を示すこと、すなわち親が子供に立派な背中を見せることが最も大切なことではないだろうか? つい最近テレビでどこかの優良な小学校の事例を取り上げていた。その中で、「早寝早起き朝ごはん」が子供にとって大切だと言っていた。そのことに関しては大いに賛成したい。だけども、その放送の中で、ある家庭の朝の風景を取り上げていたのだが、子供に対して母親が「早寝早起き朝ごはん」を実践するように言っていながら、子供がご飯を食べている横で、父親と母親はトーストを食べていた。それっておかしくないかい? 朝のご飯が頭の回転を良くするとかわかっているなら、何で両親は子供といっしょに実践しないの? 親がパン食ってたら、子供もだんだん馬鹿らしくなって、そのうちパン食うよ。普通、子供といっしょに頑張ろうと考えないかい? 今の子供たちをダメにしてしまったのは今の大人たちだ。その前を辿れば、もっと上の世代が悪いとか、責任を押し付けるのは容易だけど、だけど我々は見識のある大人なのだから、私たち大人がその責任をしっかり認識して、その上でこれからの子供の世代を良くしていくためにはどうすればよいのか、しっかり考えよう、そして、自ら実践しよう。

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