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2009年3月11日 (水)

考察「生と死について」

 おまたせしました!! ひっさしぶりに、哲学的考察です。最後までお付き合いお願いします!!

 僕たちは生きている。そんなことを考えている生物は人間だけだろう。たとえば、知能が極端に低い生命体で地上が満たされて、有限な資源を奪い合った時、彼らは生存競争の果てに、適正な数に減少するまで淘汰されるか、あるいは、その中から新たな進化が生じるかもしれない。だけどそんなことも自然の成り行き、当たり前に繰り返されてきた、生命の歴史の一ページに過ぎない。人類も同じ道を辿るのだろうか?

 その前に、そもそも僕らは何のために生きているのだろう? 食べるため?---生きるために食べる、どんどんおいしい物を求めてゆく、そこに食べる喜び、楽しみがある。セックスするため?---子孫を残すために、男は女を求め、女は男を求める。だけど、現代に生きる人たちは、「子孫を残すために」との考えだけで異性を求めてはいない。そこに安らぎを求める、愛を求める、または、欲望・快楽を求める。そして、それらが満たされた時、人は幸せを手に入れたと感じる。幸せを実感するために生きている、ということには誰も異論はないと思うし、他にも幸せを実感できる場面は山ほどあって、それはまた、人それぞれ違っている。

 だけど、そもそもの目的はやはり、自らの遺伝子を残すために始まったのが生命の歴史であるし、未来を生きるのによりふさわしい遺伝子だけが生き残ることを許されたのが生命の進化の世界だった。

 

 私たちは、「生」を求める以上、遺伝子の束縛から解放されることはない。自身の欲望から解放されることはない。生き続ける限り、誰かを傷つけ、人間以外の何十倍、何千倍、何万倍もの数の、弱き生命体たちを死に追いやり、貪り食らう、それが「生きる」ということ。

 このように考えてみると、「生きる」ということは何と罪深いことだろう。だから、そんな、生きているだけで犯し続けている罪をほんの少しだけでも贖罪しようと、誰かを愛し、誰かを守り、平和を叫び、時には、自ら犠牲になることを求めるのかもしれない。

 では、そのような罪から永遠に解放される道はないのだろうか? 「死」ぬことでしか、人に救われる道はないのだろうか? 映画やドラマ、漫画、あるいは現実の世界の話でも、誰かを助けるために、家族を守るために、国を守るために、自ら犠牲になって死んでゆく物語に、一方では「狂信者だ、洗脳だ!」と拒否反応を示しながらも、もう一方では、私たちは心打たれ、時には涙する。私たちは、心のどこかで、そんな生き方に憧れているのかもしれない。そんなに風に、「かっこよく死にたい」と思っているのかもしれない。

 宗教にはこんな考え方もある。死ぬこと、それは、「死」して無に帰するというのではなく、「死」して初めて、「罪」や「執着」から解放され、自由を取り戻す。「死」の向こう側に、唯一存在する本当の「自由」、心を全宇宙に解放し、私たちが生まれてきた元の場所に還ってゆくことで、生きているだけで犯し続けているすべての罪から解放される、唯一の道なのかもしれない。

 では僕たちは、死んだらどこに行くのだろうか? 人間だけに都合良く「来世」があるのだろうか? 仏様の世界やキリスト教でいう天国が存在して、死後の世界は今と全く同じ姿で、幸せに暮らしているのだろうか? そんな、都合のいい夢物語を信じて、現実から目を背けるのは、もう終わりにしないか?

 お釈迦様はそんなこと云っちゃいない。お釈迦様は、世の中の無常さ、儚さ、生きることの罪深さを哀れんで、だからこそ、慈悲深く生きることを人々に説いた。

 イエスキリストもそうだ。イエスは、人の心の中にこそ、神がいる、天国があると云った。それこそが「愛」、人が心に「愛」を持って生きれば、この世の中こそが天国になるのだと説いた。

 死んだ後に、来世で救われるために、現世の罪をお金で解決しようなんて、なんでそんな滅茶苦茶な話にすりかえられたのだろうか? 理由はいろいろあるだろうけど、やっぱり、お金中心の世の中で、欲望に塗れた支配者、聖職者たちの、支配のための「宗教」だったんじゃないだろうか?

 じゃあ、死後に本当に待っているのは、どんな世界だろうか? 「無」だろうか? もしかしたら、「無」かもしれない。だけど、誰もそれを実証できない以上、すべてが仮説にすぎないが、今の科学の中で、死んだ後にも残ることのできる可能性があるもの、それは「意識」だと思う。

 肉体を失えば、脳も機能できなくなり、物を考えることもできなくなるが、「意識」だけがエネルギーの流れとなって、宇宙全体に遍在し続けることができるのかもしれない。そして、時間が経過とともに、次第に宇宙と一つになって、その時に初めて、遺伝子の支配から解放され、欲望に縛られず、完全なる「自由」、完全なる「慈悲」、完全なる「愛」の中に溶け込んでゆけるのかもしれない。

 だけどそれでは、この世の中で、「意識」を高め、「精神」を発達させる意味はあるのだろうか?

 こんな考え方もできる。心と体の関係、それはすなわち、意識と遺伝子の関係。互いに共生しながらも、実は対立している。遺伝子は、自らを複写・繁殖することを目的として、「欲望」をエンジンに人間を形成し、「知能」や「心」も発達させたが、それらもすべて遺伝子にとっては繁殖のための手段であった。しかし「意識」にとっては、「意識」を定着・発達させる土台として、「人間」および「脳」が必要であったから、遺伝子を利用して進化させ、肉体を創造させ、人間を創造させ、脳を発達させた。そして、ようやく高度な「意識」を形成することができた。

これはさながら、宗教でいうところの、神と悪魔の関係に似ていないだろうか? 神(意識)は悪魔(遺伝子)を利用して、人間を創造し、この世の中は欲望に溢れてしまったが、神が本当に創りたかったのは「心」であり「意識」であった。

本来育てたかった「心」は、残念ながらその大部分が遺伝子の支配に屈し、世の中は欲望に満ち溢れ、「金」に支配され尽くしてしまった。だが、「心」は完全に支配されたわけではなく、ほんの小さな一滴が、片隅に逃げ込むように、すべての人の心の中に留まり、その最も深いところで繋がりを共有している。それが、ユングの言うところの「集合的無意識」ではないだろうか?

 そして、その繋がりを可能にしているのが、元から全宇宙に遍在する普遍の法則、「量子レベルでは、すべての存在は繋がっている」ということではないだろうか?

 「量子レベル」とは、目に見えない微小な世界とか、科学が形式上定義しているだけであって私たちとは何の関係もない世界、という意味ではなく、すべての存在の根底に存在する普遍の法則である。

 私たちは、すべての人との心の繋がりを取り戻し、長い間、遺伝子に任せ続けてきた心の支配を取り戻すことで、この世の中に、「愛」と「慈悲」に満ち溢れた、「天国」を実現することができるのではないだろうか?

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コメント

宇宙の一部とありますが宇宙とは具体的に何でしょうか、また、宇宙とは果てがあるそうですがその一部となると解釈に苦しむのではないでしょうか?

投稿: | 2013年9月 8日 (日) 21時30分

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