2010年2月10日 (水)

何の意味も無く....

 僕の場合、日記を書く時はいつも気構えていた。というのは、ブログを始めたそもそもの目的があったからだ。うまく表現できるか自信はないが、たぶん以下のような感じ。

 自分はきっと目的があって生かされている、だから、自分の生き様や自分の考え方を多くの人に伝えなければならない、その目的というのは、自分の場合は、環境活動を通じて世界の平和を実現すること、世界の平和を実現するためには、人は憎しみ合っていてはいけない、憎しみ合わないためには、表面的な手段よりも、人々の心に平和をもたらすことが一番大切、だから、僕はブログや日記を通じて、そんな生き方の大切さを伝えよう....

 みたいに考えていたので、その考えにマイナスの影響を及ぼすようなことには、自分自身でフィルターをかけてしまい、日記には書かなかった。すると、どんどんと内容は限定され、いつのまにか日記を書けない人になってしまっていた。

 そんなこんなで、たぶん2年以上は経った。

 最近、上記の考えは大きく揺らいでいる。

ひとつ、人間社会に恒久的な平和をもたらすことなど不可能ではないだろうか?

ひとつ、人の心の救いなど、夢物語ではないだろうか? 

そしてもう一つ、自分に与えられた摂理はもう終わったんじゃないだろうか?

 もちろん、これらにも答えが出たわけではない。どれほどに文明が発達したとしても、「悟る」ということほど難しいことはないなあと、今さらに感じる。

 もうちょっとで悟れそうだと思ったんだけど、結局振り出しに戻されてしまった。あまり時間は残っていないのに...。

 そして今、何の脈絡もなく、思ったままの日記を書いてみようと思った。そうすることで、本当の自分自身を理解できるんじゃないかと思った。

 たぶん、内容は今後もけっこう重いのではないかと思うが、日々の考えをありのままに書き始めてみたいと思う。

 読者のみなさん、今後もお付き合いください。

 ちなみに、今夜も一人、自分自身もわからない何かを求めて、夜の街を彷徨いますビール お酒、飲めないのにね...。

 あ、そういや、今日そのことを思い立ったのは、今日が僕の大切な親友の誕生日だったからです。
5856196_2217096347

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年11月29日 (日)

どんなもんでしょうか?

 最近、友人に勧められて、マンガの「ワンピース」を1巻から最新巻まで一気に読んで、数箇所で涙流しました。

 私が涙した場面、特によく覚えてるのは、ドクターが桜を咲かせるところと、ルフィが鐘を鳴らすところでした。

 ところが、そのいすれも、友人が泣いた個所とは違うんですね。友人はそのどちらも感動はしたが涙は流さず、友人は泣いたところは、チョッパーが過去を回想する場面でした。

 そこで僕が思ったのは、人によって感動する部分が違うのは、そこに共感しているかどうか、感動の根本は共感なんだなあ...と。

 そして、共感するのは、そこに自分自身と重ね合わせる部分があるからで、それはさらに過去の経験などが影響しているのだなあ...と。

 で、で、ここからなんですが、するってえと、物事に感動したりとか、豊かな心を養うためには、いろいろな人生経験、悲しいこと、嬉しいこと、苦しいこと、そんな人生経験こそが重要なわけで、

 そんな人生経験を養うためには、良いこと以外は存在しない地上天国みたいな世界では豊かな心は育たない、それよりも、善も悪も混在した、今の世の中みたいな世界でなければならないのかなあ...。

 そして、そんな善と悪が拮抗している世界から、だけど決して悪には心奪われず、多くの人の心を救い出し、豊かな心を養ってゆく、

 そんなことが、生きてゆくためにはいろいろなことをしなければならないわけですが、そのすべての人生の根底にある究極の目的なのではないかと思うのですが、どんなもんでしょうか?

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2009年3月11日 (水)

考察「生と死について」

 おまたせしました!! ひっさしぶりに、哲学的考察です。最後までお付き合いお願いします!!

 僕たちは生きている。そんなことを考えている生物は人間だけだろう。たとえば、知能が極端に低い生命体で地上が満たされて、有限な資源を奪い合った時、彼らは生存競争の果てに、適正な数に減少するまで淘汰されるか、あるいは、その中から新たな進化が生じるかもしれない。だけどそんなことも自然の成り行き、当たり前に繰り返されてきた、生命の歴史の一ページに過ぎない。人類も同じ道を辿るのだろうか?

 その前に、そもそも僕らは何のために生きているのだろう? 食べるため?---生きるために食べる、どんどんおいしい物を求めてゆく、そこに食べる喜び、楽しみがある。セックスするため?---子孫を残すために、男は女を求め、女は男を求める。だけど、現代に生きる人たちは、「子孫を残すために」との考えだけで異性を求めてはいない。そこに安らぎを求める、愛を求める、または、欲望・快楽を求める。そして、それらが満たされた時、人は幸せを手に入れたと感じる。幸せを実感するために生きている、ということには誰も異論はないと思うし、他にも幸せを実感できる場面は山ほどあって、それはまた、人それぞれ違っている。

 だけど、そもそもの目的はやはり、自らの遺伝子を残すために始まったのが生命の歴史であるし、未来を生きるのによりふさわしい遺伝子だけが生き残ることを許されたのが生命の進化の世界だった。

 

 私たちは、「生」を求める以上、遺伝子の束縛から解放されることはない。自身の欲望から解放されることはない。生き続ける限り、誰かを傷つけ、人間以外の何十倍、何千倍、何万倍もの数の、弱き生命体たちを死に追いやり、貪り食らう、それが「生きる」ということ。

 このように考えてみると、「生きる」ということは何と罪深いことだろう。だから、そんな、生きているだけで犯し続けている罪をほんの少しだけでも贖罪しようと、誰かを愛し、誰かを守り、平和を叫び、時には、自ら犠牲になることを求めるのかもしれない。

 では、そのような罪から永遠に解放される道はないのだろうか? 「死」ぬことでしか、人に救われる道はないのだろうか? 映画やドラマ、漫画、あるいは現実の世界の話でも、誰かを助けるために、家族を守るために、国を守るために、自ら犠牲になって死んでゆく物語に、一方では「狂信者だ、洗脳だ!」と拒否反応を示しながらも、もう一方では、私たちは心打たれ、時には涙する。私たちは、心のどこかで、そんな生き方に憧れているのかもしれない。そんなに風に、「かっこよく死にたい」と思っているのかもしれない。

 宗教にはこんな考え方もある。死ぬこと、それは、「死」して無に帰するというのではなく、「死」して初めて、「罪」や「執着」から解放され、自由を取り戻す。「死」の向こう側に、唯一存在する本当の「自由」、心を全宇宙に解放し、私たちが生まれてきた元の場所に還ってゆくことで、生きているだけで犯し続けているすべての罪から解放される、唯一の道なのかもしれない。

 では僕たちは、死んだらどこに行くのだろうか? 人間だけに都合良く「来世」があるのだろうか? 仏様の世界やキリスト教でいう天国が存在して、死後の世界は今と全く同じ姿で、幸せに暮らしているのだろうか? そんな、都合のいい夢物語を信じて、現実から目を背けるのは、もう終わりにしないか?

 お釈迦様はそんなこと云っちゃいない。お釈迦様は、世の中の無常さ、儚さ、生きることの罪深さを哀れんで、だからこそ、慈悲深く生きることを人々に説いた。

 イエスキリストもそうだ。イエスは、人の心の中にこそ、神がいる、天国があると云った。それこそが「愛」、人が心に「愛」を持って生きれば、この世の中こそが天国になるのだと説いた。

 死んだ後に、来世で救われるために、現世の罪をお金で解決しようなんて、なんでそんな滅茶苦茶な話にすりかえられたのだろうか? 理由はいろいろあるだろうけど、やっぱり、お金中心の世の中で、欲望に塗れた支配者、聖職者たちの、支配のための「宗教」だったんじゃないだろうか?

 じゃあ、死後に本当に待っているのは、どんな世界だろうか? 「無」だろうか? もしかしたら、「無」かもしれない。だけど、誰もそれを実証できない以上、すべてが仮説にすぎないが、今の科学の中で、死んだ後にも残ることのできる可能性があるもの、それは「意識」だと思う。

 肉体を失えば、脳も機能できなくなり、物を考えることもできなくなるが、「意識」だけがエネルギーの流れとなって、宇宙全体に遍在し続けることができるのかもしれない。そして、時間が経過とともに、次第に宇宙と一つになって、その時に初めて、遺伝子の支配から解放され、欲望に縛られず、完全なる「自由」、完全なる「慈悲」、完全なる「愛」の中に溶け込んでゆけるのかもしれない。

 だけどそれでは、この世の中で、「意識」を高め、「精神」を発達させる意味はあるのだろうか?

 こんな考え方もできる。心と体の関係、それはすなわち、意識と遺伝子の関係。互いに共生しながらも、実は対立している。遺伝子は、自らを複写・繁殖することを目的として、「欲望」をエンジンに人間を形成し、「知能」や「心」も発達させたが、それらもすべて遺伝子にとっては繁殖のための手段であった。しかし「意識」にとっては、「意識」を定着・発達させる土台として、「人間」および「脳」が必要であったから、遺伝子を利用して進化させ、肉体を創造させ、人間を創造させ、脳を発達させた。そして、ようやく高度な「意識」を形成することができた。

これはさながら、宗教でいうところの、神と悪魔の関係に似ていないだろうか? 神(意識)は悪魔(遺伝子)を利用して、人間を創造し、この世の中は欲望に溢れてしまったが、神が本当に創りたかったのは「心」であり「意識」であった。

本来育てたかった「心」は、残念ながらその大部分が遺伝子の支配に屈し、世の中は欲望に満ち溢れ、「金」に支配され尽くしてしまった。だが、「心」は完全に支配されたわけではなく、ほんの小さな一滴が、片隅に逃げ込むように、すべての人の心の中に留まり、その最も深いところで繋がりを共有している。それが、ユングの言うところの「集合的無意識」ではないだろうか?

 そして、その繋がりを可能にしているのが、元から全宇宙に遍在する普遍の法則、「量子レベルでは、すべての存在は繋がっている」ということではないだろうか?

 「量子レベル」とは、目に見えない微小な世界とか、科学が形式上定義しているだけであって私たちとは何の関係もない世界、という意味ではなく、すべての存在の根底に存在する普遍の法則である。

 私たちは、すべての人との心の繋がりを取り戻し、長い間、遺伝子に任せ続けてきた心の支配を取り戻すことで、この世の中に、「愛」と「慈悲」に満ち溢れた、「天国」を実現することができるのではないだろうか?

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年4月26日 (土)

集合的無意識と遺伝子

 私達の意識の根底にある「集合的無意識」は、たとえば、次のように説明されます。

 普段、私たちが意識している顕在意識は、氷山にたとえれば、海の上に顔を出している部分にしかすぎない。つまり、顕在意識が意識という大きなパイの中に占める割合はほんの一部分にしかすぎない。

 そして海中に沈んでいる部分、つまり意識の大部分が無意識によって構成されている。

 またさらに、この無意識の部分は、生まれてから現在に至るまでの個人的な経験から構成された個人的無意識と、そのさらに奥深くに広がる集合的無意識とから構成されている。

 集合的無意識とは、個人の経験の領域を超えた人類に共通の無意識領域のことを言います。

 一方、遺伝子は、リチャードドーキンスによると、次のように説明される。

 我々は遺伝子という名の利己的な存在を生き残らせるべく盲目的にプログラムされたロボットなのだ。遺伝子は、マスター・プログラマーであり、自分が生き延びるためにプログラムを組む。個体というものは、その全遺伝子を、後の世代により多く伝えようとする。自然淘汰における中心的な役割を演じているのは、遺伝子と生物個体である。

 
 集合的無意識の立場からすると、遺伝子に支配されているとされる利己的な行動は、顕在意識に支配されているに過ぎず、その奥底の集合的無意識に気づいていない、と説明できる。

 遺伝子の立場からすると、ある個体が一見利他的な行動を取っているように見えても、遺伝子レベルで見ると利己的な行動が異なった現れかたをしているに過ぎず、遺伝子はどこまでいっても利己的である。

 いったいどちらが本当なのでしょうか?

 個人レベルで考えても、自分を犠牲にして人助けしようとしている人の姿を見て感動する自分がいる。心に清々しさを感じる。これはなぜなのだろう? 自分の心の根底に、利他的な行動を善しとする何かがあるからではないだろうか?

 その一方で、心が性欲に支配されて、反社会的な願望を抱くことがある。遺伝子に支配されていることを痛切に感じる。

 このことは、先に存在したのは、生命なのか、意識なのか、ということにも通じると思う。

 生命があって脳があって、はじめて意識というものが誕生したのだ、という方が、すんなり理解しやすい。だがそうだとすると、やはり人間はどこまでいっても利己的な遺伝子の支配を逃れられない。

 だが最近の哲学者および異端の科学者は、生命誕生よりも前に、原始的な意味での「意識」というものが存在しており、これが「集合的無意識」と呼ばれたり、場合によっては、「神」と呼ばれたりもした、という。

 この後者の立場はにわかには信じ難いが、非常に興味深い。

 というのは、私自身が、意識が先に存在していたという説が正しい、と信じたいからに他ならない。

 それは、これから人類が、地球温暖化を始めとする環境問題、石油や食糧が足りなくなる不足の時代を迎えるにあたって、どのような方向に進んでゆくのかを決定づける、根源的な要因であると考えるからである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年9月24日 (月)

父 ---Father---

 僕の住む町月形町から車で1時間半ほど走った。そこには新築の建物、有料老人ホーム。僕の父の最期の引越し先になるところ。何も知らない父は、立派な施設に喜び、「こんなところに住めたらよろしいですね」と職員の人に笑顔で振舞う。その日は施設の見学だけ。家に戻ってきたが、父は家には入らず、そのまま月形町内の特別養護老人ホームへ。出発の時、父は笑顔で僕に手を振る。いつものデイサービスに行くと思っているのだろう。もう二度と家に帰ることはないのに…。

 僕は子供の頃のいろんな体験から、父を憎んで育った。父のような人間にだけはなりたくないと思った。そのことについて、僕のブログの以下のページに詳しく書いている。

http://moonflorist.way-nifty.com/moonflorist/2006/05/post_4ddf.html

 父が来て以来、夫婦関係がうまくいかなくなった。妻がいらいらすることが多くなり、父に攻撃的になる。父は痴呆症で、言ってもわからないのに、と思いながら、これ以上夫婦関係が悪化するのを恐れ、何も口出しできない。それに、僕は父を憎んでいるはずで、それよりも僕の家庭を大切にしたいはずだ。でも、心にはもどかしい気持ちが溜まっていく。また、妻への愛情が薄れていく。どうして僕の父をもっと人間らしく扱ってくれないのか?

 夫婦の会話もますます少なくなり、父への攻撃もさらに激しくなる。そんな時、4歳になる息子が妻の母親に、「じいちゃん、どうして怒られてるの?」と聞いた。ばあちゃんは答えた。「怒られてるんじゃなくて、できないから教えてもらってるのよ。」

 痴呆症の老人に、何度言っても毎日できないことを、毎日のように怒鳴りつけ、そんなの誰が見ても怒られてるに決まってる。思わず僕は腹が立って「子供に嘘をつくな。子供が一番正直なんだ。」とばあちゃんに言ったが、内心では、「じいちゃん、どうして怒られてるの?」の一言は僕が一番言いたい台詞なんだと叫んでいた。

 その数日後、大きな問題が発生して、どうしても父を老人ホームに預けなければならなくなった。

 父が僕に最後に手を振った時、ようやく気がついた。大嫌いだった、憎んでいた父であったはずなのに、どうして父が攻撃されてこんなに腹が立っていたのか? 家庭が崩壊するかもしれない状況に追い込まれているというのに、そのことに対してどうしてこんなにも冷静でいられるのか?

 そう、憎しみは愛情の裏返しだったんだ。僕は父が大好きだったんだ。父に愛されたい、父と遊びたい、父と手を繋いで歩きたい、父にだっこされたい、そんな何ひとつとして叶わなかった思いが、愛情が憎しみになって、父を憎んでいると思っていたが、本当に父親を嫌う子供なんているはずがない。それは、今の自分の息子を見れば本当によくわかる。

 子供はお父さんが大好きなんだよ。

 父を老人ホームに預ける、その瞬間に、ようやく自分の気持ちがわかった。そして、こんなことになってしまった情けなさ、自分自身の不甲斐なさ、そして取り返しのつかないところまで来てしまったことを悟る。

 何もかも終わりにしたい。時間を戻したい。一からやり直したい。何も考えず、父親の後を追いかけていたあの頃へ。

 だけど、何一つとして叶わない。できることは、現実をしっかりと見据え、新しい毎日を作ってゆくこと。厳しい現実であろうとも、自分の気持ちに正直に生きたい。嵐を恐れていては、本当の幸せには辿り着けない。

 今までだって、バカなことをたくさんして、それでも今、元気に生きていて、もう何も思い残すことは無い。精一杯、もっともっとバカになってやる。

 子供はお父さんが大好きなんだよ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2007年4月11日 (水)

今日はほのぼの系です!!

 今日はちょっとほのぼの系です。お友達からのいただきものです。ぜひ、ごらんください!! 

http://www.flash.co3.jp/page/f1.html

 僕は意地になって3回も4回も見ていたら、その後10分くらい、まぶたに焼き付いていました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2007年1月11日 (木)

アーヴィンラズロー1

2_1  僕ら人間にとって、五感から得られる情報、特に視覚と聴覚から得られる情報には、絶対的な信頼性がある。世の中には、五感だけでは説明のつかない不思議なことが山ほどあるのに、それらを体験した時にはいろいろな意味で感動を覚えるものであるが、いつしかその感動も薄れていき、ただの偶然であったとか、目の錯覚であったとか、気のせいであったとか、五感で説明できないものは否定してしまうか、もしくは忘却のかなたに追いやってしまう。だけど、ほんとうはどうだったんだろうか? 本当は、僕達の知らない、いや、まだ科学では説明できていない世界があるんじゃないだろうか?

 僕は、神や仏や宗教は否定論者であるが、今読んでいる本には、大いに考えさせられている。それはアーヴィンラズローっていう、世界的に有名な物理学者の書いた本だ。まだ、読んでいる途中であるが、しばらくブログのネタも途切れているし、読み終わったら印象も変わっているかもしれないから、途中経過ということで、少し書いてみたくなった。

 たとえば、万有引力の法則。僕らは何の疑問もなしに受け入れている。手に持っている鉛筆から手を離せば、鉛筆は下に落ちていく。それは地球に重力があるからだ。地球に重力があるってのは何となくわかる。だけど、重力は質量のあるすべての物質が持っているもの。落ちている鉛筆にも重力は存在するが、地球の重力の方が圧倒的に大きいので、鉛筆が地球に引かれていく。重力は目に見えないが、鉛筆が落ちていく様を見て、重力が確かにあると認識し、だけど万有引力っていうのは、みんなが当たり前にそうだと言ってるから、間違いないと思ってるだけだ。

 たとえば、電波。こんなもの目に見えないし、五感でも全く感知できない。だけど、アンテナをつけたら、テレビやラジオが電波を受信し、確かに電波があると確信する。電波がまだなかった時代、最初に電波の存在を信じて、実際に発生させた人は、どのようにして、電波の存在を確信するに至ったのか?

 地球はどのようにして生まれ、僕ら人間が誕生するに至ったのか? 宇宙の生まれた歴史、地球の生まれた歴史、人類の進化。教科書を読んで学び、学校で教えられなかったことは専門家の本を読んで、いかにも確からしいから、きっとそうなんだろうと確信してきたが、実際に見てきた人がいるわけじゃない。本当に何が真実か、本当は誰も知らない。それは地球の未来の予測にしても同じで、地球温暖化というのはほぼ間違いない事実だとしても、温暖化した後にどんな未来が待っているのか、温暖化したことによって、地球はどのように変わっていくのか、まだまだ予測の話でしかないが、だけど、何かやらなきゃ!っていう衝動にかられる。これはいったいなぜなんだろう?

 年末に読んだ本は、リチャードドーキンスの「利己的な遺伝子」。簡単に説明すると、遺伝子の目的は自己の複製のみ。遺伝子は自己の複製を作ることを目的として、他の遺伝子との競争に打ち勝つために、その乗り物をより有利な物に作り変えていった。その結果、最強の鎧を手に入れた。それが「人間」という鎧。その鎧は、我々にとってのコンピューターと同じで、いちいちご主人である遺伝子の命令を仰がなくても、自ら考えて生存を続けることができる、すなわち脳を備えるようになった。ところが、その脳をあまりにも発達させすぎたばかりに、「心」というものを発生させてしまい、その「心」は時に遺伝子の目的でない行動を望むようになってしまった。それが利他的な考え方。

 ちょっとドーキンスの著作の枠をはみだして、自分の希望的見解を書いてしまったかもしれない。そんなこんなで、遺伝子はどこまでいっても利己的であるという本であった。人類の進むべき道は、やはり自滅しかないのかと悩んでいたところに、アーヴィンラズローの本は衝撃的な内容だった。

 心理学でいえば、集合的無意識という。僕らの意識は、最も深い部分では、すべての人間が繋がっているという。アーヴィンラズローはそれを「量子真空エネルギー」、「Aフィールド」あるいは「情報場」と表現した。たとえば、生命は46億年の進化で、人間を創り上げたが、確率論的にはありえない、というのはよく聞く。宇宙にしても、我々の住む宇宙がこのように秩序を保って存在できていることも、確率的にはありえないことだそうだ。そのたとえとして、目の見えない人がルービックキューブをして、6面すべて揃うまでにかかる時間は、1260億年だそうだ。それに対し、それを補助する人がいて、ルービックキューブを一回動かすたびに、それが正しいか正しくないか、アドバイスしながら行った場合、ずべて揃うのにかかる時間は2分だそうだ。それが何を意味しているか?

 この宇宙、というか、すべての空間には、量子真空エネルギーというものが存在している。それは、私達人間の五感では全く感知できないが、確かに存在しているという。ではどんなエネルギーなのか? それは「情報場」とも表現され、人類の歴史、地球の歴史、宇宙の歴史、宇宙が生まれるさらに前の歴史、過去のすべての情報が、量子真空エネルギーとして存在しているというのだ。宇宙はなぜ、このように秩序正しく存在できるのか? それは過去に存在した前宇宙の情報を量子真空エネルギー場から引き出し、形作ってきたから。生命は、なぜこのように短い時間で、人間を創り上げることができたか? それも、人間に至るまでの情報が量子真空エネルギー場にすでに存在していたから。とすると、人間は地球上で偶然に作り上げられたものではなく、遺伝子の進化のかなり必然的な結論として出来上がったものであり、他の星にも、我々そっくりの宇宙人がいるかもしれない。

 我々はどのようにして、その「情報場」に触れることができるのか? それは音叉にたとえられる。すなわち、自分自身が共鳴できる情報にだけ触れることができ、利用することができるという。これは何を意味するか? 世の中がもっと良くなるようにと、心温まる話を必死にブログに書いている。それを読んだ人の心に、「思いやり」の気持ちが湧き上がる。それはネットを通じてのことだが、量子真空エネルギーでは、僕が善なる思いを抱いて、強く心に念じれば、それが全宇宙に共鳴してゆく可能性もあるってこと。そのような、多くの人の善意で「情報場」が満たされていけば、世界はいつのまにか善意で溢れる世界に変わっているかもしれない。

 書いてて、不安になってきた。暴走しているような気がする。今日はここまでにして、よろしければ、みなさんのコメントを聞いてみたいが、いかがだろうか?

 ところで、僕がアーヴィンラズローの本を読んでなぜこんなに感銘を受けたかであるが、もし量子真空エネルギーというものが確かに存在して、我々の進化が決して利己的なものではないとするならば、地球温暖化の問題や、世の中の様々な社会問題の解決など、造作もないことになるからだ。すなわち、「自分が変われば世界が変わる」ってこと。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2006年12月20日 (水)

お気に入りのHP紹介します

 お友達に紹介いただいたページです。何度読んでも泣けます。命の大切さと儚さと美しさを教えられました。みんなに紹介しようと思って見ていたら、また泣いちゃいました。そんなに新しくないので、ご存知の方も多いと思いますが、初めての方はぜひともご覧ください!

クレヨンしんちゃんの13年後

http://www.geocities.jp/jwnbf437/sintyan.html

ゆっくり読みたい方はこちらをご覧ください

http://2log.blog9.fc2.com/blog-entry-768.html

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年11月18日 (土)

生命の目的

 生命は、人類であれ、動物であれ、微生物であれ、同じ一つの目的を持っていると思っています。同じ一つの生命から始まったからです。「生命の目的」を問うと、「自己の存続」、あるいは「自己の複製の増殖」という答えが返ってきますが、それは目的ではなく、結果ではないでしょうか?

 「自己の存続」と「自己の複製の増殖」の中で、「自己の存続」は後から生じたものであり、「自己の複製の増殖」の方が最初からあったと思います。なぜなら、進化した生物体ほど寿命が長いからです。また、単純な生命は遺伝子の交流は行わず、自己の完全なる複製だけを行っています。単純な生命ほど、本来の「生命の目的」通りに生きていると思います。

 「自己の複製」のためには、太陽と地球から得たエネルギーを費やして、新しい生命のために自身を犠牲にしなければならない。そう、自身を与えることこそが、生命の目的ではないかと思うのです。それが、私達の最も深いところにある、潜在意識の中にきちんと存在すると思うのです。だけど、人間は進化しすぎたために、文明が発達しすぎたために、潜在意識に触れることがほとんどできなくなってしまった。だけど、ごくわずかな人だけが、潜在意識にまで到達することができた。それがイエスキリストや釈迦であったと思います。

 「性善説」、「性悪説」という言葉がありますが、潜在意識の中では、すべての人間は善であるのに、その自分の中の善に気づかずに生まれ、気づかずに育ち、気づかずに死んでゆく。すなわち、本当は「性善説」が正しいのに、「性悪説」のような世の中になってしまい、だから、家庭教育や学校教育、社会教育がしっかりしなければならない、と必死になっていますが、発展途上国の、特に原始生活に近い生活をしているような民族には、難しい社会教育も学校教育もないけど、「ストレス」も「肩こり」もないし、ましてや「自殺」など、全く理解不能なことだそうです。

 自殺の問題にしても、地球環境の問題にしても、人々の意識の転換、新しい価値観の樹立こそが根本的解決の唯一の方法であると思いますが、それは無理矢理に都合のいい新しい価値観を作り出して、押し付け教育をしようという話ではなく、私達自身の心の中にある、本来それこそが私達の本質であるところの「生命の目的」に還れば、辿り着けると思います。迷子の子供が自分の家に帰るように、新しい価値観に還り着くことができると思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2006年8月 3日 (木)

50年も生きれれば幸せです

 2週間のご無沙汰でしたあ!! 前回書いた大問題については、まだ先方からの回答がないので、ストップしてます。この話題についてはまた後日ということで。

 今日は、最近思うことについて。僕は今42歳。あと8年で50歳。50歳まで生きれればもう十分だろうなあ、と思ってずっと生きてきた。その50歳が近くなって、50歳以降、まだなお生きていたら、何をすべきか考えていた。そこで得た一つの結論。

 何よりもまず、50年もの長い年月、生きてこられたことに感謝すべきだろうなあ。そして、その後さらに生きているならば、その後の人生は、若い人たちのために費やすべきだろうなあと。

 そういう気持ちに、世の中の人、特に政治家の爺さん方がなれたなら、もう少し良い国になるんじゃないかと思いながら。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

より以前の記事一覧

その他のカテゴリー

地球環境 | 心と体 | 恋愛 | 教育 | 社会 |