2010年4月 9日 (金)

愛するってなんだろう?

 おはよ..。

 昨日は9時に泣き寝入りしたから、4時に起きてしまった。一から出直すつもりで頑張ります。

 そもそも愛するって何だろう? 遺伝子学的に考えれば、「愛」=「生殖行為」、すなわちセックスということになる。

 人間以外のほとんどすべての生物(ゴリラのような極めて人間に近い霊長類は例外かもしれないが)は、セックスが生きているうえでの唯一で究極の目的であり、彼らは何の疑いもなく、次の生命を創り出すために生き、そしてそのために死んでゆく。

 それを汚らわしい行為だと感じるだろうか?

 そんなことはあるはずがない、そう、私たちが最高の愛というように感じるような感覚を彼らはセックスで感じているはずだ。

 では、私たち人間ではどうだろうか? 私は男性なので、見方が男性の立場に偏ることをご容赦願いたい。

 たとえば、ナンパな男がいて、彼は次々に可愛い女性をモノにしてゆく。自分の大好きな女の子も、ナンパな男と知りながら、簡単に奪われてしまった、とする。

 もてない男の立場からすれば、「なんてくだらない男だろう」と感じるが、そもそも生物学的に見れば、容姿や話力など様々な点で、より優れた繁殖力を持っていて、遺伝子的に優れているということだ。

 そして、すぐに女性をゲットして自分の遺伝子をばら撒いている男は、生物学的な意味での「愛」を敢然と実行しているだけで、何ら誤った行動を取っているわけではなく、「社会」という存在がこの問題を複雑にしているにすぎない。

 逆に、女性をろくにゲットできず、生物として劣っている僕が未だに生きていられるのは「社会」が守ってくれているからだし、生きてこれたことに感謝しなければならない。

 たとえばセイウチなどは、コロニーで交尾できるのは最も強いオスだけだ。

 では、なぜ人間だけが「愛」と「セックス」を別の物と考えるのだろうか?
 
 今度は女性の立場から考えてみよう。

 人間の場合、女性は子供を育てなければならない。

 原始的な生命ほど、子供は最初から完成している。周りに敵はいっぱいいるが、卵から出た瞬間から動くことが出来、食べ物を得ることができる。だから、子育ての必要はない。しかし、鳥類や哺乳類は子供を育てなければならない。だから、単純に容姿だけで判断してパートナーを選ぶわけにはいかない。

 といっても、人間以外の生物は、容姿=生命力であって、たとえば、サル山のボス猿はサル山で最も強く、そのことが女性や子供を守ってゆく能力に直結していたから、メス猿はボス猿と交尾することに何の疑いもないはずだ。

 しかし人間の場合、「社会」というものが存在し、その中で女性自身が生き、そして子供を育てるためには社会的な能力も評価しなければならない。お金を稼ぐ力、うまく渡り歩く力、女性を守る力。

 そんなものが評価基準として入ってくることで、人間の「愛」が複雑になってしまったのかもしれない。

 たとえば、私たち人間も、より若い頃ほど、比較的容姿や運動能力などに惹かれ、恋をする傾向があると思う。それは社会的な経験が浅く、愛において原始的な判断をしているといえる。しかし年齢を重ねるにしたがって、そのような基準で簡単に恋に落ちることは少なくなり、社会的な能力に評価の基準を移していくようになる。

 さて、ではここでもう一度自分自身に戻って考えてみる。

 私は元々、容姿や運動能力において、同年代の男性にくらべてかなり劣っていた。だから、愛を獲得するためには、それ以外の部分で自分自身を磨き、女性を惹き付ける能力を身につける必要があった。それはたとえば、知力であったり、社会的な信用などであった。そうして、この社会で生きていく能力に優れていることをアピールしてきたのだろう。

 では、最後にまとめてみよう。人間において「愛する」ってなんだろう?

 社会的な判断基準が少ない若い頃ほど、「愛」=「セックス」となる傾向が強く、それは生物学的に全く正しい行動といえる。しかし、経験を重ねるにしたがって、社会で生きてゆく能力を重視するようになり、それで異性を選ぶことが単純でなくなり、じっくりと時間をかけてセックスするパートナーを選別するようになる。

 そのようにして、パートナー選びに要する期待と不安に満ちたほんわかとした時間の流れこそが「恋」であり、そうして結実したものが「愛」ではないだろうか?

 だから決して、「愛」と「セックス」は別物ではなく、入り組んだ社会の中で結実させるにはたくさんの労力と時間を要する分、それを結実させるまでの過程を「恋」として楽しみ、さらに、いったん決まったパートナーを結実した後の「愛」として時間をかけて楽しむ。

 最終的には、遺伝子を残すという生物としての唯一の目的を果たすためであるが、それに至るまでのすべての過程(恋)、そしてそれを達成した後の子育てを含む時間(愛)を人間は大いに楽しむために生きているのではないだろうか?

 結論とすれば、社会というものが、愛や恋、セックスをわかりにくいものにしてしまったが、人間はその社会という複雑な環境の中で、それぞれの楽しみを見出してきたのではないだろうか?

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2006年1月26日 (木)

愛について語る2

dscn2451  わずかな読者のみなさん、こんにちは。今日は愛の第2話です。前回の「愛について語る1」で、私個人的にはかなり納得できるところまで追求できたかなと考えていたのですが、つい先日、飲食店勤務の女性に「愛」について意見を求めたところ、「優秀な遺伝子を持っている男の子供を産む事」という回答でした。私は愕然としました。彼女は20歳過ぎなのですが、これは世代の隔絶なのだろうか(最近の若者はこういう感じなのか)、それとも男と女の違いなのだろうか、私が20年間も悩んできたというのに、彼女はすでに答えを持っているとは....。だけども、自分の遺伝子を、最良のパートナーと交わらせることによって、さらに優れたものに発展させてゆく、これが「愛」だと感じるのだとすれば、私のような若輩者から見れば、彼女はすでに神の域に到達していると考えざるを得ない。それとも、やはり女性は男性よりも「神」に近い存在なのだろうか?

 「神」の愛というのは喩えて言えば「太陽」のようなもので、すべての生きとし生ける物に平等に、しかも一方的に与えられる、そして決して見返りを求めない、それが本当の「愛」であると伝道者に教えられたことがあります。ところが先に書いた私の考える生物の「愛」は、自分の遺伝子を残すこと、すなわち男性においては自分の遺伝子を女性に与えること、女性においては男性の遺伝子を受けることということになってしまいます。だけどここで考えてみましょう、人間を含むすべての生物が「神」によって与えられた生命だとすれば、我々生物の愛は、当然「神」の愛とは違って然るべきだし、すなわち、与えられた生命を正しい方向に発展させてゆくことが究極の目的であり、「愛」であっても矛盾はないのではないでしょうか? とすると、私達の生命に当初から目的を持たせているのだとすれば、今度は「神」という存在が非常にエゴイストな存在ということになりますね。

 このまま進んでも、堂々巡りになりそうなので、今日はここまでにしますが、この次は、自分の中にあるエゴイストでない感情「自己犠牲」について考えてみたいと思います。「愛」については現在のところ、「エゴイスト」なもののように位置づけられました。だけども私の中には、全くエゴイスチックでない感情である「自己犠牲」的な感情が存在します。そして、その感情を発揚することによって、心に感動を覚えます。自分の遺伝子を残すことを目的としながら、しかしその目的と反する自分を犠牲にして他者を助けたいと思う感情、そういう感情がなぜ存在するのか、考えてみたいと思います。

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2006年1月19日 (木)

愛について語る1

SUZURAN2  今回の花はすずらん(ドイツすずらん)です。前回はクリスマスローズの八重の品種です。私のオリジナルですので、品種名はまだありません。ところで、今日は愛について。

 人を愛する気持ちっていうのは、いったい何なのだろうか。年を取ってみると、ますますわからなくなりました。若い頃は、自分自身の沸き上がる熱い思いを自分で制御することが全く不可能でした。一人の女の子を好きになると、そのことだけで頭の中は爆発しそうになりました。学校で顔を見ているだけで、家に帰っても、その子のことを考えているだけで幸せに満たされました。だからといって、その子をどうにかしたいとか決して考えませんでした。そうです、私は18歳頃までは完全なるプラトニックラブ主義者でした。だけど男ですから、性的な欲望はもちろん持っています、だけどその性的欲求と彼女への思いは全く別の物で、決して重なることはありませんでした。僕はそのことが大変誇らしいものと考えていました、つい最近までは。

 だけど、今は全くわからなくなりました。現在では、そういう一方的な深い思い込みのような感情はストーカー的なものだと忌み嫌われるようになりました。だけど僕がわからなくなった理由は、ストーカー的だからというわけではありません。それよりも、「人を愛する」ということはすごくきれいな印象を与える言葉ですが、それとは裏腹に最高に利己的な感情ではないかと思うようになったからです。利己的な感情が悪いというわけではありません。利己的な感情が存在しなければ生物は生存できません。人類が万物の頂点に立てたのは利己的な感情で長い歴史を勝ち抜き、最高級の遺伝子を勝ち取ってきたからです。とすると、僕の生物としての生きる目的は、利己的な感情にしたがい、だけども社会から反発されぬように自分の内性をひた隠ししながら、できるかぎり多くの遺伝子を残すことであるということになります。すなわち、それが「愛」という感情の正体であるとするなら、「愛」とは人間の複雑な感情などではなく、またプラトニックラブなどというのは幼稚な幻想で、実は遺伝子に刻み付けられた最も重要な命令で、最高機密であるがゆえに自分自身にもその目的は知らされていない、そして他の生物を見ればすべてが最大の命令として有していることが明らかなように、生命を与えられた瞬間からすでに存在していた、最も原始の、まさに神の第一の命令であったんだと思います。だから、いくら考えてもその感情の発露を見出すことができなかったし、その感情を制御することができなかった。しかし、制御できないほど強い感情を有しているということは、逆の見方をすれば、それだけ強い命令を与えられているということのようにも考えられます。

 なかなか難しい話の展開になってしまったので、続きは次回ということで....。

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