2007年2月18日 (日)

年寄りは若者のために...

 身近に住む友人の言った一言です。彼は、飲み会の席で酔っ払いながら言ったのですが、私の胸には鋭く突き刺さりました。

 半年ほど前のことです。若手農業者数名と関係団体の部長のおじさんで飲んでました。僕は酒が弱いのでほろ酔い程度だったのですが、私以外の方はかなり酔っ払っていたようです。若手農業者といっても、30代後半から40代前半程度、その年代を若手と呼ばなければならないのが、農村のつらい事情です。部長のおじさんは定年間近といったお年頃だったように思います。おじさんは、酔っ払ったら、とにかく絡み、特に年下連中に説教するのが常だったようです。その日も、我々相手に説教しまくってました。私としては、酒の席で説教されるのが大嫌いなのですが、だからといって、楽しい宴席を気まずくしてしまうのも本意ではなく、適当に相槌を打って聞き流していました。私は、基本的に酔っ払いは適当にあしらうタイプです。

 その日も、いつものお得意の説教を始めたようです。

部長「最近の若者はまるでだめだ。全然仕事ができん。だから、いつまでたっても、俺が働かなきゃならん。情けない。お前らもしっかりしろ!」

 そんな内容だったと思います。それに対し、僕の友人の発した一言です。

友人「あんたがいるから、若者が育たないんだ。年寄りは何のためにいると思っているんだ。若者のためだぞ!!」

 この瞬間、形成は完全に逆転。友人の、部長に対する説教が延々と続きました。

 この一言は、私自身にも当てはまる言葉です。とかく会社というのは、金儲けが第一の目的になってしまっています。だけど、本当はそうじゃない。会社にしろ、何にせよ、世の中のすべてのことは、人を生かすことこそ、最大の目的であるはずです。会社で社員が給料をもらうのは当たり前のことですが、その仕事を通して生きがいを感じ、そして人間として成長してゆくことにこそ、会社が存在して、金儲けをしている意味があると思うのです。ところが、今の世の中では、金儲けが最優先のようになってしまっています。

 学校もそうです。子供たちに心身ともに健全に育ってもらうことこそが最大の目的のはず。なのに、自殺する子供が出るような学校になっていること自体、根本的に間違っています。教育よりもはるかに大切なことを、片隅に追いやってしまっているように思います。

 定年間近の部長クラスだから悪いというのではありません。僕自身もそうです。自分よりも若い世代の人たちに何を残してやれるか。金ではなく、人的資源ほど重要なものはありません。すなわち、自分が学んできたことを若者に伝え、その心を語り伝えていく、その人間として最も重要なことを、僕らはあまりにも怠ってきたのではないでしょうか? 現代社会がこんなにも歪んでしまっているのは、僕ら大人にこそ、責任があるのだと思います。学校で教えることは、教科書に書かれている「事実」に重点が置かれ、社会人になったら、お金を人生の中心にするように洗脳されてゆく。こんなんで、健全な社会が育つはずがなかった。

 最も大切なことは、「慈悲」「思いやり」「愛」といった、心を伝えることだったと思います。

 若者が失敗しそうだから、仕事を任せられないのではなく、失敗したら、上司がしっかり尻拭いしてやればいい。金よりもずっと大切なことがあるのだから。だけど、そんなことにすら余裕のない社会、その上司も、きっとそんな心の余裕すらもないんでしょう。だから、少しずつ、気づいた者から少しずつでも変えていくしかないんだと思います。

 僕らは、大消費社会の中で、若い頃を思いっきり楽しみました。だけど、この先の世代には、「同じように楽しめないんだよ、そんなことをしたら、地球はだめになっちゃうんだ」、と言います。何て都合のいい話なんだろうと思います。だけど、それでも、僕らは訴えなくてはならない、それは自分のためではなく、これからの若者達のためなんだから。そして、もっと先の未来の子供たちのためなんだから。

 未来の子供たちのために、僕は本気になっているのか、彼の一言をいつも肝に銘じて、活動しています。

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2006年11月18日 (土)

生命の目的

 生命は、人類であれ、動物であれ、微生物であれ、同じ一つの目的を持っていると思っています。同じ一つの生命から始まったからです。「生命の目的」を問うと、「自己の存続」、あるいは「自己の複製の増殖」という答えが返ってきますが、それは目的ではなく、結果ではないでしょうか?

 「自己の存続」と「自己の複製の増殖」の中で、「自己の存続」は後から生じたものであり、「自己の複製の増殖」の方が最初からあったと思います。なぜなら、進化した生物体ほど寿命が長いからです。また、単純な生命は遺伝子の交流は行わず、自己の完全なる複製だけを行っています。単純な生命ほど、本来の「生命の目的」通りに生きていると思います。

 「自己の複製」のためには、太陽と地球から得たエネルギーを費やして、新しい生命のために自身を犠牲にしなければならない。そう、自身を与えることこそが、生命の目的ではないかと思うのです。それが、私達の最も深いところにある、潜在意識の中にきちんと存在すると思うのです。だけど、人間は進化しすぎたために、文明が発達しすぎたために、潜在意識に触れることがほとんどできなくなってしまった。だけど、ごくわずかな人だけが、潜在意識にまで到達することができた。それがイエスキリストや釈迦であったと思います。

 「性善説」、「性悪説」という言葉がありますが、潜在意識の中では、すべての人間は善であるのに、その自分の中の善に気づかずに生まれ、気づかずに育ち、気づかずに死んでゆく。すなわち、本当は「性善説」が正しいのに、「性悪説」のような世の中になってしまい、だから、家庭教育や学校教育、社会教育がしっかりしなければならない、と必死になっていますが、発展途上国の、特に原始生活に近い生活をしているような民族には、難しい社会教育も学校教育もないけど、「ストレス」も「肩こり」もないし、ましてや「自殺」など、全く理解不能なことだそうです。

 自殺の問題にしても、地球環境の問題にしても、人々の意識の転換、新しい価値観の樹立こそが根本的解決の唯一の方法であると思いますが、それは無理矢理に都合のいい新しい価値観を作り出して、押し付け教育をしようという話ではなく、私達自身の心の中にある、本来それこそが私達の本質であるところの「生命の目的」に還れば、辿り着けると思います。迷子の子供が自分の家に帰るように、新しい価値観に還り着くことができると思います。

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2006年11月 9日 (木)

いじめ自殺について-2

 生まれつきの善人なんて、いるわけない。人はみな、生まれた時は本能のままに、自分を生かすことで精一杯。自分のことだけを考えて生きているものだ。それが、大人になっていくにしたがって、周りの人間たちや社会の影響を受け、善人になるか、悪人になるか、またはその中間の適当な居心地のいいポジションで落ち着いてゆく。

 自分のことだけを考えて生きてきた子供に、大人は善人になることを要求する。その要求は決して間違ったものではない。生まれつきの善人なんて、いるわけない。最初は見え透いた偽善行為でも、その偽善行為を重ねていくうちに、それが子供自身にとって当たり前の行為になり、そして偽善者から善人に成長してゆくのだと思う。子供に限らず、大人でもそうだ。偽善者は決して悪いことではない。善人になろうと努力している素晴らしい行為だと思う。

 ちょっと前のいじめ自殺の時に、担任の教師が子供に「偽善者」とニックネームをつけた、という話があった。僕は、教師がいじめに加わっていたことも大きな問題であると思うが、それよりも、この教師の人間としてのレベルの低さに愕然とした。そして同時に、社会全体の道徳観、善悪の感覚の欠如ではないかと感じた。

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2006年11月 7日 (火)

いじめ自殺について

 花が無くなったら、全然日記が書けないじゃないか!! 花で忙しい時は、話題があっても忙しくて日記が書けない。花が無くなったら、話題がなくて日記が書けない。悲しい....。

 今日は朝から雨です。何人かの方が心配してメッセージくれましたが、うちは被害はありません。ありがとうございました。ここで異常気象の話を始めたら、またいつものパターンになってしまうので、その話は今日はやめときます。

 いじめ自殺についてです。最近はニュースでいじめ自殺を取り上げない日はありません。

 世間はいじめの問題を学校の問題と考えて、学校の改善策ばかりに関心が集まっていますが、ちょっと違うと思っています。日本の自殺者は年間3万人で世界でナンバーワン!!! 異常なのは学校ではなく、日本社会すべてではないでしょうか? 異常な日本社会の中で正常な学校は、やはり異常ですよね。それと、「いじめ」と、「いじめ自殺」は、全然違う問題だと思います。というか、何か嫌な事が「自殺」に直結する日本社会の異常さこそが、一番考えなければならないことだと思います。

 といいますのは、集団化した群れを守っていくために、弱者が犠牲になっていくことは、動物社会にだって存在するからです。人間社会、特に日本社会のような高度な文化が要求される社会になると、みんな集団に所属して自身のポジションを守ることに精一杯ですから、いじめのようなものが存在することは避けられません。私自身はいじめに全く参加せず、かついじめられることもない超越した存在でしたが、そのような存在でいれることは本人の人間性と周囲の環境条件が合致した場合に限られ、超越した存在がさらに高度ないじめにさらされる例だってありえます。

 問題は、容易に「自殺」に直結する理由は何か?、ということではないでしょうか? 今日もいじめ自殺のニュースが流れていて、私の隣で3歳の息子がどこまで理解できているのか、ニュースにじっと注目していました。「自殺する」という言葉を、毎日のように平然と聞いて耳慣れていく、こんなことにも問題があるのではないかと感じました。

 とすると、テレビドラマなどにも大いに問題あるのではないか? それと、前々から感じていたのですが、子供向けのアニメにしたって、僕が子供の頃は勧善懲悪のヒーロー物ばかりでしたが、今はアンパンマン以外は善と悪の境がはっきりしないようなアニメばかり。これで、子供に善悪の判断基準が正しく備わるのだろうか? たとえば、大人としてもおもしろかった「鋼の錬金術師」や「ブラッド+」。子供の目にはどのように映るのだろうか? 視聴率や、金を持っている大人の娯楽を中心に作られているテレビ番組。

 異常なのは学校ではなく社会全体。肉体的には楽でも精神的に苦しい日本社会。肉体的には苦しくても、精神的には楽しい社会の方がいいと思いませんか?

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2006年7月 3日 (月)

夜盗虫(ヨトウムシ)との戦い

Dscn2996  花が遅れていることもあって、毎朝ゆっくりと農場の見回りをする余裕がある。朝の見回りで調べることは、第一に土の乾き具合、その日の天気予報と実際の天候、それに肌で感じる湿度や風、空模様なども照らし合わせて、水を与えるかどうか決める。そして次に、作物の生育状況と病害虫の被害などを調べる。

 で、写真の気持ち悪い虫の話題だが、夜盗虫(ヨトウムシ)という。なぜヨトウムシという名前かというと、日中は土の中に潜ってじっとしているが、夜になると這い出てきて、作物を食害するから。ただ葉っぱを食べるだけならいいのだが、ヨトウムシが恐ろしいのは、小さな苗ばかりを狙って(小さな苗は柔らかくておいしいからだろう)、地際の生え際を切断し、上部の葉っぱを土中に引き込んで、すべて食い尽くしてしまうのだ。そして、株から株へ次々と食べ続けるので、放っておくと畑が丸裸にされてしまうのだ。

 余裕があることもあって、じっくりと見て回っていると、今年は特に被害が多く、毎朝5~6匹のヨトウムシを退治している。退治方法は、食害されている株を見つけると、その株を掘り出して、株の周りを掘ってヨトウムシがいないか捜すのだ。この作業に毎朝30分は費やしている。

 と憎たらしいヨトウムシの話だが、こんなヨトウムシでも、退治する時には少々心は痛むものだ。なんのために虫を殺すのか? 花を作るため。では何のために花を作るのか? 僕と僕の家族が生きるため。そう、ビニールハウスは僕と僕の家族が生きるために作り出した、花だけを生かすための人工の生態系なのだ。この生態系の中でより品質の良い花を作るために、何十、何百、何千の虫を殺し、何万、何十万の微生物を殺し、何百万、何千万の細菌を殺している。

 僕はこの生態系に直面して生きているから、このように実感する機会があるが、僕のように農業を営んでいない人間であっても、一人の人間が生きるためには、物凄い数の他の生物を犠牲にして命を保ち続けているのだ。

 だけど、犠牲になって死んでいく虫や微生物に、天寿を全うするだとか、「まだお若いのに....」だとか、感情があるわけではない。彼らは自分が死ぬということすらわかっていないかもしれない。だけどそこに、悲しみがあるわけでもないだろう。そこにあるのは、ただ生まれて、そしてただ死んでいく。個体としての死はそんなに重要ではないのかもしれない。大切なのは、命が受け継がれていくこと。

 最も尊いことは「命が受け継がれていくこと」だと思う。そして、自身の命はただ生まれ、そしてただ死んでゆく、そんな儚い生命だからこそ、精一杯生きようと思う。儚い生命だからこそ、美しく、そして尊く生きたいと思う。彼らの生涯はとても短いが、決して手を抜くことなく、精一杯全力を尽くして生きている。常に死と直面して、命をかけて生きている。

 生涯が長いからといって、手を抜いて生きていてはいけないと思う。そんなことでは、僕の犠牲になって死んでゆく生物たちに申し訳が立たない。たとえば、最近は健康ブームみたいになっているが、健康に気遣うこと自体は悪いことではないが、だけどこの体はいったい何のためにあるのか?、と僕は思う。ライオンは狩りをしなければ生きていけない。獲物を追いかける足を失ったライオンは死ぬしかない。蚊は、人間に叩き殺される確率の方がはるかに大きいことがわかっていながら、それでも果敢に血を求めてやってくる。ただ子孫を残すためだけに。

 農業をしていると、時には無理をして、体を痛めることもある。だけど、それが当たり前のこと。この体は食べ物を得るためにあるのだから。僕の子孫を養うために、僕の体はあるのだから。自分の生命を長引かせることが、僕の生きる目的ではない。「天寿を全うする」とか「老後の楽しみに」とか、なんか今の世の中はおかしいと思う。

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2006年6月25日 (日)

交流会を通じて

 月形も当別も長い歴史のある切花の産地ですが、近年は生産者が減少しています。青年部が結成されたのにはそんな理由もあると思います。そういう状況を考えますと、今は厳しい価格競争の流れの中で、他の産地よりも少しでも良い花を作って、ちょっとでもいい値段で売ってと、産地間競争が激しさを増しております。また、他の農作物も厳しくなる中で、新たに切花を産地化してゆこうという地域も次々に増えております。我が産地も厳しい価格競争に晒される中で、日々新たな努力を求められ、ついてこれない生産者は見捨てられかねない状況にもなりそうな気配です。

 だけどもそのような流れは、大規模生産者はますます大規模化して、大量消費を求める流通の世界にとっては大歓迎な状況なのかもしれませんが、農村部のコミュニティにとっては危機的な状況に陥りつつあります。昨今は、海外から大量の切花が輸入されるようになり、品質、価格、安定生産と求められることは増え続け、それに対抗するためには、生産組合の組織力を強めて、共選出荷等の同一化が求められ、生産者個々の個性は失われるし、また、生産原価は大きくなる一方です。そして、販売価格は同様か、下がり続けています。

 本来一番大切なものは何だったんだろうかと最近よく考えます。花を売って、お金を儲けるのは何のためか? まずは自分自身と家族が幸せになること。それには楽しい生活環境が無くてはならない。それが地域のコミュニティ。ところが、弱肉強食のような価格競争の中で、地域のコミュニティが失われていく。何かおかしいと思いませんか? 価格競争が厳しくなった一番の要因は、海外からの大量の切花の輸入。じゃあそれを手がけているのは誰? 日本の輸入業者? 総合商社? 他にも多数あるのかと思いますが、何で自分自身の寝食以上のお金儲けに情熱を燃やし、儲ければ儲けるほど、特に既存の業界を乗っ取るほどに儲けてまで、大きなお金を手にしようと考えるのでしょうか? それは人間が運営しているものであるのに、人間の心を持たない会社という組織だからでしょうか? 人間を幸せにするために考え出された会社という手段が人間を不幸にしている、そんな状況はこの業界に限ったことではないと思います。

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2006年6月13日 (火)

アニメのヒーローっていいねえ

 3日前の土曜日、朝から雨が降ったので、今シーズン初めての休みを家族で取った。で、子供を連れて小樽水族館まで遊びに行くことにした。子供も最近になってようやく人間らしくなり、水族館に行くのがすごく楽しい様子だ。車で約1時間半の道のり、ドライブを楽しもうと思い、普段はめったに流すことのないCDを聴くことにした。

 それは、僕の秘蔵のCD、懐かしのアニメ曲のCD集からさらにヒーローものばかりを特別に編集したものだ。懐かしのアニメCDというのは、「テレビまんが主題歌のあゆみ」、「続・テレビまんが主題歌のあゆみ」、「続々・テレビまんが主題歌のあゆみ」というそれぞれ2枚組のCDで、鉄腕アトムから始まって、最後は銀河鉄道999まで、僕の生まれた頃から青春時代まで完全に網羅してくれている。このシリーズにはまだ続きがあるのだが、この次の「続々々.....」はさすがにわからない曲ばかりなので、買わなかった。で、僕の秘蔵のCDに入っている曲は、ざっと挙げると、ガッチャマン、キャシャーン、デビルマン、マジンガーZ、ゲッターロボなど、まあメジャーなヒーローアニメで僕の見なかったものはないし、それらの曲はほぼすべて歌うことができる。

 子供はもちろん知らない曲ばかりだけど、僕が運転しながら歌っていると、すぐに覚えていっしょに歌おうとする乗りのいいかわいい奴で、その日も乗り乗りで楽しいドライブが始まった。だけど、しばらく走っていると、確かに楽しいドライブだったのだが、僕はそれらの曲を聴いているうちに懐かしい画面が思い出されたり、また歌詞の内容に妙に感動して、瞳が潤んできて、さらに声を詰まらせてしまって、歌うのが困難になってしまった。

 僕らが子供の頃のヒーローものは、ほんとうに素晴らしかった! 彼らは本当にヒーローだった。僕が彼らにどれほど大きな影響を受けてきたか、改めてわかった。ヒーローアニメこそが、僕の正義感の原点だったことが改めてわかった。それに比べて今のアニメは、やっぱり複雑すぎて、作品を作る大人が妙に懲りすぎて、子供の発育途上の感情には有害なものの方が多いのではないだろうか?

 ガッチャマンを歌っていると、ナンバー2のコンドルのジョーが最後の羽を投げて力尽きたシーンが蘇る。地底ミサイルのカウントダウンは「0002」でストップし、地球は救われた。キャシャーンを歌っていると、コンサート会場で流れる「チャイコフスキーピアノ協奏曲第1番」が頭の中では流れている。僕が初めて聴いたクラシック、あれからクラシックにも興味を持って聴くようになった。デビルマンを歌っていると、テレビ版ではないが、コミック版の悲しいストーリーが浮かぶ。この世で一番みにくい生き物は人間、怒りや憎しみ、妬みなどはすべて人間だけが抱く感情、人間の心の中にこそ悪魔が住んでいる、僕らは心の中の悪魔と戦って、心から追い出さなければならない。主人公の不動明は体に侵入してきた悪魔と戦って、悪魔の心に打ち勝って追い出したことで、悪魔の体を手に入れた。

 ヒーロー達は時として勝ち目のない戦いにも挑む。人質を取られて、抵抗できないとわかっていても、戦いに望む。たったひとかけらの勝利を信じ、ヒーローには常に奇跡がともにある、そして「正義は必ず勝つ!!」。

 アニメのヒーローたちは、みなそれぞれに悲しい事情を抱えている。にもかかわらず、彼らの心の中にあるものは、常に正義、すべてのものよりも常に正義が最優先される。

 僕らは大人になって何をしてきたのだろう? お金儲けに一生懸命になって、贅沢な暮らしをするようになって、世界には今日の食べ物もない貧しい人たちがいっぱいいるのに、地球は破壊され続けて、もはや虫の息のような状態になっているのに、僕らは自分のことだけ考えて生きてきたんじゃないだろうか? 生きていくのに、そんなにたくさんのお金はいらないのに、無駄に稼いで、無駄に使う。それが豊かさの証であるかのように。保険、貯金、税金、年金。すべて金。僕らはお金のために生きているうちに、お金無しでは生きられなくなってしまった。お金に支配されてしまった。このままでいいんだろうか? お金が無くても楽しみはあったし、豊かさもあったし、夢もあったんじゃないだろうか?

 悪と戦うわけではないけれど、正義のヒーローたちのように、正義のために生きたい、世界の明るい未来のために生きたい、そのために自分に何ができるのかと今日も考えています。

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2006年5月14日 (日)

ウルトラセブン

 私は、特別何かのマニアというわけではなく、いろんな分野をちょっとずつかじっているような中途半端な人間です。というわけで、今日はウルトラセブンについて。

 ウルトラセブンの最終回は、私が生まれて初めて「正義」に感動し、涙した作品でした。こちらも、私のウンチクよりも実際に作品をごらんになられることをお勧めします。私という人間は、子供の頃は友人が少ない、寂しい奴だったので、はっきり言って「テレビっ子」でした。人並みに「そろばん塾」にも通っていましたが、ウルトラマンシリーズのテレビ放送と時間が重なったので、親に勝手に辞めました。その頃は「テレビっ子」である自分自身が実は悲しかったのですが、そのようには思われたくないので、さらに自主的に「テレビっ子」を強めてゆきました。だけどその結果、ウルトラマンシリーズや数々のヒーローアニメを通して、私の中の正義感が強化されてゆきました。今では「テレビっ子」だったことは私の誇りです。

 最終回、セブンはボロボロに傷ついた体で、死を覚悟して最後の戦いを挑みます。勝利しても、敗北しても、二度とモロボシダンには戻れないことを彼は知っています。だから、最愛のアンヌ隊員に自分がウルトラセブンであることを告白し、「東の空に.......」の名文句を残して旅立ちます。バックで流れるシューマン。これほど美しく、かっこよく、そして正義に溢れた男の生き様を私は今まで見たことがなかった。私もこんな生き方をしたい、と心から思いました。その頃はもちろんビデオなんてありませんでしたから、何度も何度も再放送を見続けました。小学校の友達はみんな大人びてゆき、「太陽にほえろ!!」のジーパンの殉職の話題で盛り上がっていても、僕の心の中にはいつもウルトラセブン、それから次回以降の話題にする予定ですが、「キャシャーン」や「ミラーマン」など、ただひたむきに「正義」のためだけに生きたスーパーヒーロー達が生きつづけていました、もちろん今でもです。

 最近のテレビアニメを見ていると、すべてそうだと決め付けるわけではありませんが、「正義」と「悪」が曖昧になっているように思えます。それは細かい情感を描こうとしていたり、現実には何が正義で何が悪かはっきりしないということはわかりますが、それは大人としては正常な感覚なのでしょうが、幼い子供の立場に立って考えてみれば、そういうアニメの描き方が正しいことであるとは私は思えません。実際、私自身が上記のように正義のヒーロー達を見て育ち、明確な正義感というものを植えつけられたわけですから。

 それでは、「正義感」というものは人間に初めから備わっているのか、人生の経験の中で養われていくのか? 上の展開からゆくと、私の正義感はヒーローアニメによって形成されたということになります。しかし、次のようにも考えられます。すなわち、ウルトラセブンの最終回に感動し涙した、ということは、その正義を貫く姿に共感できる感情をその頃すでに心の中に持っていたと。で、私なりの結論ですが、子供の心の中には、いろいろな感情の元になる「種」のようなものがあるのではないでしょうか? 「正義」も「愛」も「悪」も「憎しみ」も、どのようにも成長できる感情の「種」。その種には、「正義」のエネルギーを与えれば「正義」の心が育ち、「悪」のエネルギーを与えれば「悪」の心が育つ。

 自殺の増加や引きこもりなど、今の日本社会がこんなに悲しい状態になってしまっているのは、今の子供たちに原因があるのではありません。子供たちに感情の元になるエネルギーを与えてきたのは大人です。そしてその大人たちも、子供の頃にさらに上の大人たちからエネルギーを与えられてきた。

 「正義」や「愛」、「優しさ」、「思いやり」など、心の教育を長年にわたって曖昧にし、学問や経済、金儲けの教育ばかりにエネルギーを注いできた結果が今の日本社会だと思います。もっともっと、社会全体で子供たちの教育を考え直し、すべての大人が子供の心の教育に参加しなければならないと思います。もちろん、自分たちの再教育も含めてです。また書きすぎてしまいました。すいませんでした。

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2006年5月13日 (土)

素晴らしき哉 人生

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 「素晴らしき哉!人生」って映画、見たことありますか? って最近、 難しい話題考える余裕ないんで、映画の話題ですいません。たまたま友達に、一番好きな映画聞かれて、やっぱりこれだと思いました。この映画に関する話題は、いろんなブログで語られてるし、最近DVDも出てるようですから、私があれこれストーリーを語るより、ぜひ一度ごらんになってください。以下は、私の感想です。

 私が感動したのは、主人公の心の素晴らしさです。自分の夢を捨てて、困っている家族や友人、町の人々のために尽くしました。もっと善人を気取る人々から見れば、「そんなの当たり前じゃん?」なんて言った人もいましたが、適度に善と悪の心が共存している私にしてみれば、夢をあきらめて他人のために生き、でありながらも他人のために生きる人生の中にもさらに自分の生きがいを見出してゆく、それが主人公の心の素晴らしさだと思います。

 主人公は町の悪徳金融業者の悪意ある行為によって罪に問われ、精神的に追い詰められて自殺を図りますが、とあるエピソードによって思いとどまり、自宅に戻ります。自宅に戻って待っていたのは、町中の人の善意に溢れた歓迎でした。僕はこのラストシーンを何度見ても涙が止まらないのです。僕の感想はちょっと変わっているかもしれません。僕はこう思います。主人公の常日頃の愛に溢れた言動が町中の人々の心に深く愛を浸透させた、彼こそがまさに愛の中心だったと。すなわち、「神はどこにいるのか?」と聞かれた時に「心の中に」と答えたようなやり取りが聖書に書いてあったと記憶していますが、まさにこのことだと思うんです。たとえ世の中がどんなに悪意に溢れていようとも、たった一人でも「思いやり」と「優しさ」と「愛」を見失わずに生きていれば、その人の周りに必ず愛は広がってゆき、世の中は愛に満たされてゆく、僕もこの主人公のような存在になりたいと、この映画を見た時から考えるようになりました。この映画は、僕にとっては、人生の答えを与えてくれた映画でした。

 騙されたと思って、ぜひご覧下さい!!

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2006年4月 4日 (火)

RKBとメディア

 時事ネタはあまり好きではありませんが、RKB社員の犯した集団強姦事件について。メディアの方々は、だいだいにおいて、自分たちの関係者以外の方の犯罪行為や犯罪でないにしても非人道的な行為や非社会的な行為に対しては非常に厳しい論調で、時には国家にとってもっと重要な案件が山積しているというのに、徹底的に(ある場合には自殺に追い込むまで)、叩いて叩いて叩きまくるというのに、自分たちの問題に対しては、「ガキの使いじゃねえぞ!!」っていうくらいに甘すぎて話にならない、と思ってるのは僕だけでしょうか? たとえば何だ?って言われても、僕は評論家じゃないんで、すぐに例は出てきませんが、他の誰かが書いてくれているでしょう。

 僕のメディアに対する理想的な位置づけとしては、時には国家に楯突いて、命を落とすようなことがあっても正義を貫き通す、そんな最も善なる存在でなければならないし、そうであったと思っていました。NHKのプロデューサーによる着服、これはまだ個人のレベルの裁きで許してもよいかと思えた。たとえば昔テレビ朝日が焼却場近くの農産物のダイオキシン濃度を偽って報道したこともあった。だけどこれも、農家にとってはたまったもんじゃないが、日本の誤ったゴミ処理の問題にメスを入れたくて、敢えて偽造してでも国民の関心を集めたかったのだとすれば、そこには幾ばくかの正義が感じられる。だけども、今度のRKBの問題は、そんな余地の残される問題ではない。

 はっきり言って、個人の問題ではない。RKBはメディアを続ける資格はない。正義に悖ったメディアのモラルを失った会社だから、こんな社員が育ってしまう。役員総辞職だけでも済まされないと思う。RKBは解散すべきだろう。報道を続ける資格を完全に失ってしまったと思う。だけどもおそらく、自分らの教育が悪かったからとかはとりあえず言うだろうが、結局は個人の問題で済ますだろう。事の重大さが全く理解できないだろう。なぜなら、彼らにとっては、正義と真実よりも、金と名誉の方がずっとずっとはるかに大切だからである。

 以前から、日本の将来を考えた報道や番組を作らずに、視聴率を優先して馬鹿な番組ばかりを流してきた無能なメディアには頭に来ていたが、今回ばかりは本当に愛想が尽きた。みなさん、どう思いますか? 私たち国民が裁かなければ、メディアの馬鹿ぶりはこれからも何も変わりませんよ。はっきり言って、戦後以降、今日までの日本の道徳の崩壊、教育の崩壊、心の崩壊を招いた最大の責任はメディアにあると僕は思います。

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